奈良

不比等

古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その53)

2016-10-16 07:10:00 | 奈良・不比等

奈良県が観光立県を目指さねばならない理由を申し立てると、旧村の在来人は自分たちの問題ではなくて、それは後から来た外来人の問題であると考えている人が多いことが分かる。在来人はこれまでの伝統産業と大仏商法の奈良の観光業と、奈良の農林業で十分に暮らしていけると仰(おっしゃ)る。増えすぎた60万人は、京阪神へでも帰って欲しいと。住宅地を山に戻して行って下さいと。

奈良県の人口は現在140万人であるが、終戦直後には77万人、大正末から昭和初期には60万人、明治初年頃は40万人台であったようだ。

江戸時代と比べれば、100万人増加しており、鎖国日本であれば、土地生産性から奈良県では40万人が上限であったのだろう。

明治以降人口増加に転ずるのは、近代化を進めるために人手が必要になり、出生数を調整しなくとも生業に就けるようになったのであり、それでも溢(あふ)れた人々はハワイとかオーストラリア・フィリピンに出稼ぎに行ったのである。

政府は国策として「鉱山開発と鉄道敷設」や「森林伐採と新田開発」を推進し、養蚕業と生糸生産、またカニ缶などの輸出により外貨を得た。

また、農業灌漑用水確保のため、新たに池を築造し、江戸時代よりもコメの栽培面積を増やして、食料を確保し人口増を可能とし、近代化のための機械製品の輸入のために、一次産品(生糸や銅鉱石)の生産に邁進した。勿論、北海道や沖縄にも、有能でも江戸時代なら結婚もできず生業にも就けなかった次男三男を送り込んだ。朝鮮満州を経営する段階となると四男五男まで送り込んだ。そうして、日本の人口は江戸時代の倍(6千万人)になった。

奈良県の戦後は、外地からの引揚者の受け入れで、77万人からのスタートで、林業などに頼るしかなかったが、木材需要は高かったので、奈良県の戦後復興には力となった。暫くして大阪の経済復興により大阪へ出稼ぎに行けるようになり、農業でも近郊農業的なメリットも活かせた。------------

ここまでは良かったのだが、住宅地の開発が奈良県にも押し寄せてきて、外来人が奈良県の北中部に住むようになった。リタイアすれば大阪に戻ってくれれば良いのだが、戸建て住宅で住み着いてしまっている人が多く、一生、奈良県で面倒を見なくてはならなくなっている。この人数が戦後すぐから比べても、ほぼ倍の60~70万人に相当する可なりの人口となっている。地元の工業界の振るわない奈良県にあってこれだけの余剰人口を支えるのは無理がある。高齢化に伴う医療費だけでも破産するだろう。------------------

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