奈良

不比等

古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その183)

2017-02-23 11:44:22 | 奈良・不比等
JR奈良駅前広場には三条通りの側に不自然な感じで一対の石燈籠が建っている。明治時代に平城宮跡の保存に尽力した棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)が、もう一つの願いであった平城神宮・創設に先駆けて建てたものだと云う。明治政府により「橿原神宮」と「平安神宮」は建立されたが、「平城神宮」は残念ながら実現に至っていない。今でもJR奈良駅の西側の百年会館の辺りの地名には「三条宮前町」の名が先走ってではあるが町名として残されている。------
明治政府が「平城神宮」を創設しなかった理由として考えられるのは、平城遷都が元明女帝の時代であったことと、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で仏教を弾圧しており古都奈良は東大寺・興福寺などその渦中の街であったからではないだろうか。------
明治政府は奈良県を最初の頃は堺県と一緒にしていたこともあるくらいで、分離してからの県庁所在地も本来的には柳沢氏の城下町であった大和郡山が妥当であったと思われるが、多分、柳沢藩が徳川幕府の譜代大名であったことから東大寺と興福寺の門前町で奈良奉行の差配していた古都奈良に決めている。--------
明治政府が中央集権国家の体を取り、近代化を推し進める際に、幕藩体制下の徳川幕府側にあった処は色んな意味で施策が後回しになった。奈良県もご多分に漏れず、教育制度にしても「奈良女高師(現・奈良女子大学)」が漸く設置された程度であった。-----
明治政府が奈良県に期待したのは外貨獲得のために欧米からの外国人観光客の周遊地として古都奈良を利用出来ると考えて明治13年(1880)に奈良公園を大規模な都市公園として開園した。-----

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