Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

義士堂・小泉商店(泉岳寺)と山鹿素行

2006年11月23日 09時17分55秒 | Journal
 泉岳寺の中門を出ると、写真のような土産物屋「小泉商店」がある。この店のシンボルとなっているのが山鹿流陣太鼓。山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行による兵学(兵法)の流派。「仮名手本忠臣蔵」において吉良邸討ち入りを果たす赤穂の四十七士のリーダー、大石内蔵助が叩いていた陣太鼓の流派として有名だが、実際には山鹿流陣太鼓というのは存在せず、物語の中の創作とか。
 Wikipediaによれば、山鹿素行が赤穂に配流になった縁で、藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していた。
 ――雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、大石内蔵助が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが映画やテレビドラマ、演劇の定番である。実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。門を叩き壊す(破っている)時の音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになった。
 実際には、赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。羽織などの着用もばらばらだったといわれている。山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。
 なお、1703年12月14日(旧暦)夜(雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色で、実際は冷え込みが厳しかったがほぼ満月の快晴だったといわれている)、47人の赤穂浪士は江戸市中三ヶ所に集合して、本所吉良屋敷へと向かった。
 実際に襲撃したのは現在の感覚で言えば翌15日に入っての未明午前4時頃であったが、江戸時代の慣習では翌日の日の出までを1日の区切りとしたため、当時の感覚としては「14日の斬り込み」となる、とか。

 Wikipediaその他から追記――山鹿素行(やまが・そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は江戸時代前期の儒学者・兵学者である。父は浪人の山鹿貞以。古学派の祖。陸奥国会津(福島県会津若松市)に生まれる。1628年(寛永5)に6歳で江戸に出る。1630年(寛永7)9歳のとき幕府大学頭を務めていた林羅山の門下に入り、朱子学を学び、15歳からは小幡景憲・北条氏長の下で兵学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。承応元年(1652年)播磨国赤穂藩に1,000石で仕えたが、万治3年(1660年)に辞す。朱子学に疑問を抱き、寛文5年(1665年)「聖教要録」を刊行、朱子学を奨励した保科正之(家康の孫で会津藩主)らの忌憚にふれたため、旧赤穂藩に配流となった。延宝3年(1675年)赦されて江戸の浅草に居住した。1685年に死去、享年63。
 朱子学の内面主義を批判して日用有用の学を提唱したが、その学統は儒学説よりも山鹿流兵学として継承された。素行は、赤穂に住んだ10年間、藩主の浅野内匠頭や、大石内蔵助らを薫陶(浅野も大石も子供だったと思うが?)。また素行の思想は、吉田松陰や乃木希典の生き様に体現され、脈々と受け継がれ、日本的道義を支えてきたといった評価もある。
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