Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

最近の読書について

2017年05月10日 21時08分11秒 | Journal
 テレビで観た古い映画の話ばかり書いている。もちろん、数としては新しい映画を観る機会の方が圧倒的に多いのだが、あえて感想を書くまでもないという気がして、書かないでいる。読書についても以前に書いた覚えはあるが、ほとんど触れないできた。理由の一つは、一冊の本を読了するまでに長い日数がかかるので、読中読後といってもなんとなく書くタイミングを逸するからである。もう一つの理由は、最近の傾向だが、同時に複数の本を並行して読むために、一冊だけ取り上げる気がしないからである。
 今、読んでいるものでも、出版が古いものから並べていくと、エラスムスの『痴愚神礼讃』(1508年)、その友人であるトーマス・モアの『ユートピア』(1516年)、シェークスピアの『ヴェニスの商人』(1597年頃)、チェーホフの『三人姉妹』(1900年)、Dashiell Hammettの『The Maltese Falcon』(1930年)、銭鐘書の『結婚狂詩曲(囲城)下』(1947年)と、6冊ある。特徴は、いずれも古典的な文芸書であり、つまりは、観て感想を述べたくなる映画と同じく感想を言いたくなるのは古い本である。その「国籍」は東西にわたっているが、たまたま日本の本がない。小説ばかりでなく戯曲が入っている。どうしてこういうことになったのか、各本を読了次第、順々、おいおいと自分で少し分析してみたい。

 さて、第一陣として、シェークスピア(William Shakespeare, 1564 - 1616)の『ヴェニスの商人(The Merchant of Venice)』を読み終えたところ。何度も手に取ったことはあってもついぞ読むことのなかった今さらのシェークスピアであり、その気恥ずかしさを軽減するのが、この経済事をからませた作品だった。経済学者の岩井克人(いわい・かつひと、1947‐)氏がかつて書いて話題になった『ヴェニスの商人の資本論』(1985)のことが頭をよぎった。こういうある種の注釈書を読むにもオリジナル作品を読んでおかないといけないと殊勝にも考えたのである。いろいろ一流の翻訳者がシェークスピアの訳に取り組んでいるが、小生は、安価に手に入る新潮文庫の福田恆存(ふくだ・つねあり、1912‐1994)氏の訳で読んで、この有名な保守派文化人の日本語運用力に文句はまったくない。よくああした分からない古い英語をこうして流暢な日本語に直せるものだと感心した。ただ、英語の運用について著者のシェークスピアには言いたいことが残った。

シェークスピア

 この有名な芝居は、ヴェニスの商人アントーニオーが、友人バサーニオーの借金を肩代わりして、金持ちのユダヤ人シャイロックと「万一、自分が借金を期日までに返せなかったら、自分の肉体から肉1ポンドを切り取ってもいい」という約束を証文にしたことから話が展開する。期日が過ぎても、金が返されないと知ったシャイロックは、あくまで約束の履行、アントーニオーの肉1ポンドを要求してやまない。芝居に登場するかたい友情で結ばれた男たちは、粋がっているばかりで現実にはなすすべもなく、あくまで単純で頭が悪いのだが、女はそうした頭の悪い男たちを助けて余りある活躍をし、土壇場で無能な恋人を危急から救う。そんなユダヤ人蔑視とフェニミズムが奇妙にからまった話である。
 岩井氏は、前掲書で「ポーシャとは、……まさに流通しないかたちで死蔵されている黄金あるいは貨幣という役廻りを演じている存在にほかならない。……そして、この貨幣=ポーシャをその死蔵されている場所から解放する役割こそ、真の『ヴェニスの商人』バッサーニオに課された役割なのだ」と書いている。マルクス『資本論』の貨幣観を下地に連想を最大限に働かせてそう解釈しようと思えば、そうなのかもしれないが、正直、戯曲のポーシャのことを考えて、この美しいが、あり得ないと疑いたくなるほど深い才智を秘めた生身の女性について、特に貨幣という役廻りを演じているとはどうしても思えない。
 バサーニオー(Bassanio)とポーシャ(Portia)の間の相思相愛同士の熱烈な会話中には、バサーニオーが「いまのお言葉で、もう何も申し上げることは無くなりました。ただこの血だけがあなたに語りかけるのだ。どうやら心の働きが乱れてしまったようです。いわば、国民に愛されている国王がみごとな挨拶を述べ終ったあとで、喜びに湧きかえる群衆を撒きこむあの騒ぎにも似ておりましょう。そんなとき、人々の口を洩れる言葉が、雑然と入り乱れ、その一つ一つには意味があったものが、結局はわけのわからぬ騒音の渦(うず)と化する。喜んでいることだけは確かだが、聞くものに果してそれと解るかどうか……それにしても、この指輪がこの指を去るとき、この命もまたこの身を去りましょう! そのときこそは、はっきりとおっしゃっていただきたい、バサーニオーは死んでしまったと」というくだりがある。

エリザベス女王

 シェークスピアが生きていた時代、経済的な覇権を争ってイギリスがスペインの無敵艦隊と戦っていた時代に、エリザベス女王(Elizabeth I、1533‐1603)が、1588年に行った歴史的名演説「我が愛する民よ、私は私の身を案じる者たちから忠告を受けて来た。謀反(むほん)の恐れがあるから武器を持った群衆の前に出るのは気をつけよと。しかし、私は貴方たちに自信を持って言う。私は我が忠実かつ愛すべき民を疑って生きたくはない。そんな恐れは暴君にさせておきましょう。私は常に神のもとで私の最大の力と安全を我が臣下の忠実な心と善意に委ねてきたのです。それ故に、いま貴方たちが目にしているように、私は貴方たちの中にやって来たのです。遊びでも気晴らしでもなく、戦いの熱気の真っ只中に、貴方たちの中で生き、そして死ぬためにです。たとえ塵となろうとも我が神、我が王国、我が民、我が名誉そして我が血のために。私はか弱く脆い肉体の女だ。だが、私は国王の心臓と胃を持っている。それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。不名誉を蒙るよりも私は自ら剣を持って立ち上がります。私自らが指揮官、審判官となり、貴方たち全員の戦場での勇気に報いましょう。私は既に報酬と栄誉に値する貴方たちの意気込みを知っています。私は王の言葉において約束します、貴方たちは正しく報われます。……」は、国民の熱狂的な歓喜に迎えられた。シェークスピアもその場に立ち会ったかどうかは知らないが、この女王の演説に身震いした時代の当事者だったに違いない。岩井氏が、芝居の主要登場人物であるポーシャを貨幣に見立てた連想力について、小生にピンと来るものは何もなく、勝手なこじつけぐらいにしか思えなかったのだが、シェークスピア本人が、登場人物であるバサーニオーに恋心を語らせるに際して、自分の心の乱れを国王の演説後の群衆が起こした喧騒に見立てたことにも、ある種の違和感を覚えた。恋のようなプライベート・マターを戦争のようなパブリック・マターと同一視していいのかという、公私混同に関して倫理的規範の存在を感じている今どきの小国民が抱く戸惑いである。

 同じような一国の存亡にかかわる歴史的な大海戦に、国民が熱狂する時代を生きた日本の作家が居る。夏目漱石(1867‐1916)である。漱石は、処女長篇の『吾輩は猫である』(1905‐6)の御主人クシャミ先生をして「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている」と、ロシアのバルチック艦隊との日本海海戦(1905)の英雄を詐欺師や山師と並べている。これは、「非国民」と糾弾されても仕方がないような過激な台詞(せりふ)である。
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