マーク・ゲインというアメリカ人ジャーナリストが、占領下の日本を取材し、『ニッポン日記』という本にしています。マーク・ゲインは、冷めた目で日本側のこともアメリカ側のことも見ていた人で、おもしろい本です。
その中に、山形県のある中学校校長が登場します。
その校長は、ちっぽけで賤しげな男で、おどおどしていた。 「これが、典型的な教育家だった。なぜ日本が戦争に突入し──そして負けたか、その理由が私にもわかるような気がした」 校長は、日本が戦争に負けたのは、東条英機とその一派が悪かったと考えていた。校長は、彼の学校の教員たちが民主主義の観念を教えることができるかと尋ねられたとき、確信を持って答えた。『もちろん。東京からの命令の来しだい──』
こんなふうに、学校の民主主義教育は、東京からの指揮で行われた。言葉ばかりが先行する民主主義教育ができた。
同じように、日本の学校は東京からの指揮で、個性尊重教育をやり、ゆとり教育をやり、学力向上をやってきたわけです。お役所仕事みたいにやるから、個性も伸びないし、集団性も伸びない。
問題は、ずっと同じだったのではないでしょうか。教育目標や内容の問題ではなく、学校を官庁と同じような仕組みで運営したことで、教育が変質していたのです。欧米の学校は、もっと自治的です。
教育基本法を改正する案が国会に出てきた。 教育を根本的に見直すというのが謳い文句ですが、根本的に見直したとは、思えない。 つまり、戦後六〇年が経って、文科省が指揮する仕組みそのものを検討する時期に来ているのに、いまだに、文科省が指揮するやり方だけいじっているんです。
(転載歓迎 古山明男)










さて世の中では、高校で履修すべきとされている科目が履修されてない、と大騒ぎになってますね。私は「受験にいらないものはやらなくてよい」という風潮は問題だという指摘に異議はありませんが、その基準を当たり前のように学習指導要領に求めていることはそれはそれで問題だと思います。そもそも教育って戦後、地方分権でやるものって決まったんですよね? 今年はじめの民主党の小沢氏と当時の小泉首相との論戦でもこの点が取り上げられましたよね? なのに、文部省が勝手に学習指導要領を決めてもうすぐ40年にもなるというのに、殆ど問題視されてないのはどうしてでしょうか?