思いつき日記
思ったことをかいてみよ
 



私は知り合いに目の見えない人がいる。
彼は物心ついたころから目が見えないので、私のように目の見えるひととは感覚が違う。
彼にちょっとスキーマについて聞いたのだが、「聴覚だけでなく、他の感覚もつかって感じるんだ」というようなことを教えてくれた。

耳が聞こえないという感覚は、ヘッドフォンで音を流し続けて外界からの音声を遮断することにより疑似体験できるだろう。実際に耳が聞こえないのではないが、無意識に行っている外界からの音声情報分析を行うことが不可能ならば、外界に対して耳が聞こえない状態といえるだろう。目が見えない感覚はもっと簡単で、目をつぶればいい。これは簡単だし、想像もしやすい。
目が見えない状態を想像すると、いろいろ不思議がある。

朝、目が覚めるとはどういう感覚か?
天井とは何か?
雨とは?雲とは?
大きいとはどういうこと?
色とはなに?

こう考えると、全く同じ日本語をしゃべっているにもかかわらず、目の見えない人が考えていることは、全く理解できない様に思う。しかし目の見えない人と普通に会話ができる。スキーマに共通部分が多いということだろう。
目の見えない人たちのスキーマは目の見える私よりずっと本質を突いていると思う。







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私は日本語をしゃべるが、これは耳が聞こえ、日本で生活していたからだ。

私は知り合いに、耳の聞こえない人がいないので、想像するしかないのだが、
耳の聞こえない人、とくに生まれてからずっと耳の聞こえない人は、耳の聞こえる日本人が理解するようには日本語を理解は指定内容に思う。
耳の聞こえない人たちは耳の聞こえない人たち独自の文化があって、手話はその最たるものであろうが、その文化を土台とした考えをするはずだ。
それは音を抜かした世界であるが、音が無いだけではなく、音による影響が無い世界である。
その一端は、テレビの音を消すことでイメージできるだろう。言葉が聞こえないだけでなく、音楽や、効果音が無いのだ。
そういう音の無い世界ではどのように考えるのであろうか?
音の無い世界でのスキーマは私のスキーマとは全く違うであろう。

しかし耳の聞こえない人たちも文章を書く。日本語として理解できるのだから、私の持つスキーマと共通部分がある。むしろ文章になる場合、耳の聞こえない人たちのほうが単語の純粋なスキーマを持っている気がする。



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私が何か物事を考えるとき、日本語で考えている。

日本語なんだけども、それは私が知っている単語単語のイメージの集合体である。
先日読んだ、「わかったつもり」西林克彦著 の中に、「スキーマ」という専門用語が出てくる。認知心理学のことばで、ある出来事に関連する知識のまとまり、といったような意味だそうだ。 
日本語の単語一つ一つに対して私は私固有のスキーマがあり、スキーマの関連で物事を考える。単語の持つイメージ、それがスキーマだと考えてよさそうだ。

文章を理解するとき、読む人はそれぞれのスキーマに基づいて理解する。
各人のスキーマは別々であるが、同じような体験をしているから同じように理解する。

私が私のスキーマをもとに物事を考え、文章化するが、それを読む人は読む人それぞれのスキーマに基づいた読む。私が考えたことは私のスキーマに基づいたものであるから、他人に完全に理解してもらうことはできない。

しかし、文章を読むとあたらしいスキーマの関連に気づくことがある。
そして本は新しいスキーマをもたらしてくれる。

読書は楽しいね。




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