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FRESH SALAD COLUMN ドラマ「ラスト・フレンズ」について、テレビ・ドラマについて。

2008-07-06 13:59:22 | Weblog (Rotting fruits)
 上から85・58・85・65・348・112でおなじみ、女子による女子のためのブログ、FRESH SALADです。どうぞよろしく。

 久しぶりに、「3ヶ月、10回あるいは11回」というような「連続もの」の「テレビ・ドラマ」を見終えました(ちょっと前の話になってしまいましたが)。フジテレビ「ラスト・フレンズ」です。
 
 まずは、この作品の「素晴らしいと思った点」について。

・上野樹里さんの「役作り」、いや、「成り切りぶり」、「変身ぶり」。
 単なる美形の役者さんというのではなく、「ドラマ」の「登場人物」として、最後まで見ることができました。出演者のなかでも、出色です。

・宇多田ヒカルさんの歌の力強さ。
 このドラマは、この主題歌なしには成立しない。いや、むしろ、「この主題歌」の「一つの映像化」、「一つのドラマ化」、「一つの解釈」といってもよいほどです。全編が、出来のよいPVとなっています。

・男性が女性に加える(身体的、言語的、精神的)「暴力」の描写にリアリティが感じられる。恋人同士が二人だけで過ごす「時間」、「空間」がもっている「濃度」といったものが、鋭く映像化されている。痛みや恐怖を感じる映像になっていた。よく取材をしている、という印象を受けた。

・DV[=ドメスティック・ヴァイオレンス]を受ける女性が、なぜ、その男性から離れられないのか、という(筆者にとっての)「謎」について、「一つの」解釈を与えている点。

 「DVという現象」を、筆者は、これまで、つぎのように考えていました。
 「DVを受ける女性」は、たとえば、「親」から「子どものとき」に受けた「原-暴力」を、それは単なる「暴力」だったのではなく「愛」であったのだと必死に「肯定」しようとして、このことの「終わりなき再確認(recognition)」のために、「大人になった現在」においても、「親」の代わりに、「暴力を振るう恋人」に「依存」し、かつての関係を「反復」してしまうのだ、と。
 つまり、「親子関係」を軸にして、DVを理解しようとしていた、というわけです。

 これに対して、このドラマでは、「筆者の観たかぎり」では、どうやら、つぎのような「解釈」が示されていたようです。(もちろん、このドラマでも、「親子関係」が、DVという関係にはまり込む背景として描かれてはいるのですが。)
 「DVを受ける女性」は、「暴力を振るう恋人」のなかに、「自分」を見ている、あるいは「自分に似たもの」、「自分の分身」を見てしまう。その女性は、「暴力を振るう彼氏」を見捨ててしまったら、「自分」も見捨てることになってしまう、と感じている。自分で「自分」を愛さざるをえないように、「暴力を振るう恋人」という「自分の分身」を愛さざるをえない。「暴力を振るう恋人を受け入れる」ということが、「自己愛を捨てない」ということと直結しているわけです。
 こうした事態を、第三者からすれば「単なる傷の舐めあい」と見ることもできるかもしれませんが、それよりも、「もう少し厄介」であるような気がします。なぜなら、「傷の舐めあい」では、自分と恋人とが「負っている傷」が「異なっていてもよい」わけです。この場合には、ギブ・アンド・テイクとなるわけです。つまり、二人が相互に、相手に「同情する(ふりをする)」ことを通じて、相手に対する「優越感を得る」ことができるわけです。言い換えれば、一方で、相手に対して「優越感」を感じつつ(自己承認=自信self con-fidence)、他方で、自分の弱みを相手から承認してもらえる(他者からの承認=相互信頼con-fidence)。自分の弱みを「提供」しつつ、優越感を「獲得」するわけです。ここには、「承認してくれれば、だれでもよい」という「関係の緩さ」が、まだ残っているように思われます。
 これに対して、「自分」とその「分身」、すなわち互いに「同じ傷」、「似たような傷」を「負わされている」と思い込んでしまう場合(DVの場合)には、「傷の舐めあい」とは構図が少し異なるように思われます。なぜなら、「他人だと思えない」とか、「この人以外にはありえない」というような「錯覚」あるいは「呪縛」がいっそう「深く刻み込まれている」だからです。「代替不可能」だという二人のあいだの幻想こそが「厄介」だと思うのです。
 もちろん、相手を「代替不可能だと思い込むこと」が、「恋愛」の成立条件なわけですが。

 最後に、このドラマの「欠点、短所と筆者には思われた」点について。

・もうイイカゲン、「3ヶ月、10回」という「業界のお約束」はやめたほうがいい。
 このドラマは、同じ内容であれば、「本編」を「全七話」ぐらいにまとめることができたのでは。三ヶ月「もたせる」ために「冗長」になっている、と思いました。(推測ですが、この点については、脚本家のせいではなく、テレビ局側の問題が大きいのでは。「3ヶ月、10回」というような縛りが、明らかに、だいぶ以前から、テレビ・ドラマを駄目にしている。脚本家無視、視聴者無視。)

・脚本、筋書きについて(1)。「若者の馴れ合い」。
 医者の診断書を受け取りながら、なぜ、警察に通報しなかったのか。ちゃんと通報したのだろうか。そのシーンを筆者が見落したのだろうか。筆者の事実誤認、不注意でしょうか。この点がよくわからなかった。
 通報しなかったことの結果として、問題解決能力のない「若者の馴れ合い」というような「いやな印象」が残りました。群像劇としてドラマを描くことと、若者たちがドラマのなかで「仲間以外の力」(警察や家族、弁護士、行政等々)に頼ることとは、両立します。当たり前のことですが、「ドラマの基本設定やコンセプト」を「ドラマの筋立て」に完全に浸透させる必要はありません。
 まあ、好意的に解釈すれば、それが「いまの若者」であり、それが「いまの家族」だ、ということなのでしょうけれど。

・脚本、筋書きについて(2)。事件の「前」と「後」。
 「出来事」、「事件」が起きるまでを描く、ということに重点を置き過ぎている。
このことは、「このドラマ」だけに限らない。日本の多くのドラマにあてはまる。
なぜ、「大切なことを告白するまで」、「事件が起こるまで」ばかりを描くのか。これはおかしい。大切なのは、「事件」や「告白」を通じて人間関係が変わってしまった、その「後」である。「後」こそ、丁寧に描くべきです。
 「焦らすだけのドラマ」、「筋を追うだけのドラマ」は、はっきり言って、二流だと思います。これが、筆者の「ドラマ判定基準」の一つです。
 恋人になった後、夫婦になった後、殺人が起きた後、カミング・アウトした後、人間関係が変わってしまった後。「後」こそが観たいのです。「前」だけ描くのは、フェアじゃない。
 そりゃ、当然、「前」も重要ですよ。つまり、前と後の比重が問題なわけです。

・脚本、筋書きについて(3)。ドラマの前提となっている時代認識は、大抵、(意図的に?)「古い」。
 「かつて」に比べて、たとえば「性同一性障害を告白すること」の垣根は、明らかに低くなってきていませんか。「性同一性障害の告白」といったことを「あまりに重大なこと」として描いてみせるのは、むしろ、時代の「意識=良心」(conscience)を「逆行」させることになりませんか。
 こうした「告白を受け入れて生きていく人々の物語」があってもよい。あるいは、自分はものの考え方が柔軟だ、先進的だと思っている人々の「偏見」や「硬直ぶり」を描くとか。「見せ方」、「描き方」はいろいろとある、と思うのですが。

・脚本、筋書きについて(4)。「暴力を振るう男」の人格描写。
 本編11回(+特別編1回)もあって「冗長さ」を感じた、にもかかわらず、「暴力を振るう男」の過去や家庭環境、この「男」がどんなことを考えながら「いま」を生きているのか、自分が振るう暴力について何を感じているのか、といったことについての描写が、まったくないわけではありませんが、それでもやはり「あまりに少なすぎる」。これじゃ、まるで「暴力機械」。この点も、不可解で、バランスが悪いように思われました。この男だけ、群像劇の「外」に置かれている、というような印象が残りました。「暴力男の内面を描く」ことと、「暴力男を肯定する」こととは、当然、別のことです。もっと描かねばならなかったように思われます。
 さらに、「最後に、この男が自殺する」という筋書きも、「きわめて危うい」。
 「美男子」が、恋人やその友人たちにさんざん暴力を振るった挙句、「美しく自殺する」というのは、どういう「美意識」なのでしょうか。「そういうキャラクターです」とか、「それが、いまの若者です」というだけでは済まない。「この男の背景や来歴を十分描かずに、そういうキャラです」というのは、「完全にお粗末」としか言いようがない。それでは「ドラマ」と名乗る資格がない。「ろくでもない男」を「美化」しているだけ。そういう受け取り方をされても仕方ないのでは。それは、まずくないですか。
 まあ、この点についても、好意的に解釈すれば、「こういう自殺」もまた「自己愛」という「プリズナー・オブ・ラヴなのだ」といえば、そうなんですけど。それにしても、とりわけこの点についてはヒドイ筋書きだ、と筆者は思うのです。「美男子」に暴力を振るわれて、それを受け入れてしまう女性を「このドラマの外へ」と再生産しかねない、とさえ思うのです。あるいはまた、「死ねば、それで済むんですか」、「死ねば、それでドラマは終わるんですか」、とも言いたくなる。「自殺代わりの死刑」というような犯罪が現に続発していることからしても、なおさらです。

 事件の「後」が描かれていない、ということが、「筆者の個人的感想」の中核にあります。

 ディスプレイの前のみなさん、このドラマのファンのみなさんは、いかがお考えでしょうか。
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ラスト・フレンズ 性同一性障害 プリズナー カミング・アウト ヴァイオレンス フジテレビ 宇多田ヒカル
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