帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

義家先生

2007年01月31日 | Weblog

私はこのヤンキー先生という人物が好きだ、夜回り先生も同様。
なぜかといえば、どちらも子供の未来ということについて自分なりに行動してきた人物であるからだ。
子供は機械ではなく、調子が悪いから測定器を接続してメンテナンスできるようなものではない。
生きている存在、そう人間であるということ。

子供の恐ろしさは、それが未来への存在でも有るということで、そこには接する人物の大きさ、すなわち人としての重さというものがどうしても問題となる。

学校の先生ですばらしい先生は、常に偏差値とは無縁であって、どこの大学を出たとか、高校時代にどこぞの進学校にいたとかとはまったく関係なく。

いうなればそれまでどう生きてきたかということが最大のもので、また教員になって以降子供達とどう向かい合ってきたかというものこそがとても大事なのだと私はおもう。
すくなくとも私の回りに多数存在する友人でもある先生はそれぞれがそれなりとしてあるものの、残念ながらそうでない先生もいる。

悲しいかな人は自分の経験があってこそ他人の心を思いことができるわけで、
もと荒れていた義家先生がその人間性の中に子供達をひきつける能力があるのはそれが彼という生き様のなかにあるわけだ。


最近マスコミが次の餌食としてこのヤンキー先生の足払いをかける地固めをしているのを見るにつけ。
つくづくマスコミはくだらない存在(真剣にかつどうしているマスコミ除く)なのだと再々認識する。

報道はあくまでも人間の頭にはいった情報を伝えるだけであるから、その情報にはすくならずともその人間の経験がおりなす思考というフィルターを通り抜けるものであるがゆえに、100%正確であるはずもない。

ましてや視聴率や売り上げという絶対条件があるところほど、原型をゆがませるものであって、そうしてゆがんだ情報を鵜呑みにして、さらに自分の知りえる偏見がさらにものごとを面白おかしく捕らえさせている。

こうしてみると、人という生き物はつねに何がしかの加工情報をうけとり、そこにきてさらに自分の中で二次加工を施し、自分の納得できる情報に整理して記憶という形をとりながら頭の仲に収納されるのだということがわかる。

一番正しい情報は、現実に自分の目でみて、耳で聞いて、舌で味わい、寒さ暑さを肌で感じることであるが。

こうしたことが素直に出来るのは子供であって、大人ではそれが難しい。
その自分がすでに出来なくなっていることが出来ている子供。 そして得ている情報というものを性格に分析するには、自分の経験則もさることながら、頭の中にある余分なフィルターを如何に取り払うかということが重要なのだが、
みなさんはどうであろうか・・・・・・

ちなみに、私のことを言わせてもらえれば、今もって未熟、とてもではないがすべての子達の心の中を見渡せる力などなく、なおも研鑽を積まねばならないのだと常に自分のしりを鞭で叩いているというのが正解だろうか。


良い虐め・悪しき虐め

2007年01月26日 | 研究-教育・育児

いじめは全部悪であるというのが、大半の認識。
しかしいじめは本来善であるというのは、いじめが本能だからとしています。

良い悪いの見分け方などあるのだろうか?
実はこれ、糞みそ一緒の解釈が今のいじめ解釈。

良いいじめは必ず出口のあるものということです。
私の子供時代はまがいなりにもそうでした。

簡単な例を伴いながら書いてみたいと思います。
幼いころに友達同士で遊んでいて、中に自分勝手な子がいると、ほかの子達はみんなその子と遊ぶのを避けたり無視したりすることがあります。
幼いですから、やられた子は「なんで遊んでくれないの?」とダイレクトに聞きます、すると何人かに囲まれて「おまえ勝手だぞ!」と言われたりするものです。 これがもっとも基本的な正しいいじめ。
しかし、これが頭脳の発達とともに高度化します、当然に悪い方向へ高度化もします。
例を中学でわりとあるようなことにしてみます。
ここに、いじめを受けている、ある生徒がいます、周りの大人たちには原因がわかりません。 なぜ受けているかということをタイムマシンで遡ると、掃除をやらないその子の姿が見えてきます。
ほかのみんなが嫌々ながらもやっているところに、その生徒だけは無駄話をしていたり、手抜きをしたりと、いい加減。
当然にほかの生徒からの不満が出てきますから、「何してるんだおまえ!」という言葉が出てきました。 ここでは!と気がつけばなんの問題もありません。 こうしたことはごく当たり前にあることで、また自分を戒めたその子には経験にともなう自己解決能力があるからです。

ところがその子のとった行動は、泣くということ、男の子のその言葉に傷ついたと泣き始めたわけです。 たまたま廊下を通りかかった先生が見つけ、その男の子を職員室に呼び出します。
こうなると、その男の子とおよび友達、一部始終を見ていたクラスの子の中にある変化が現れます。
ひとが持つ本能、すなわち向上するための本能、すなわちいじめの感情です。

泣いている生徒が自分のサボりを認めればまだしも、自分はきちんとやっていたいい、いじめを受けたと言ったばあい、いじめは一気に変化します。
またかよーこいつ・・・」と思っていたクラスの生徒達は、やれば良いだけのことをやらず、泣くという、いうなれば非常に汚い手を使ってくるその姿勢に腹立たしさを感じるようになるわけです。

上記の例ではいじめがほぼ100%発生します。
この場合、「泣いてるんじゃねーよバカ!掃除しろ」、「ちゃんとやるまで無視だなこいつ」となるのはただしいじめの範囲、そのこがきちんとやりさえすることで出口に到達するからです。
これが出口のあるいじめ、すなわち正しいいじめです。
ここに子供達の心の強さが関係してきます、強い心を持つ子供達は、自分は言ったいどうなのか?、と振り返る力がありますから、そうした自分というものを考えつつやりますので、けして悪質ないじめへと変化することはありません。

しかし問題なのは、こうした心の強さを持たない子達、自分を振り返る事に臆病な子たち、簡単言うなら精神的に幼児並みの子達。
叱られるという経験があさく、ゆえに自分を振り返る力のない子に非常に悪質ないじめをする子が多いことは学校の先生なら容易に分かることだと思います。

出口のない悪質ないじめは上記のいらだちに、自分持つ何がしかの不平不満などをまぜながら、「存在が気にくわねーんだよ!」、「ちびのぶす!」、「蹴り飛ばしたり、紙をはさみで切ったり」
というように、本人の力でどうすることも出来ないことに本来の内容を転化し、その目的とはまったくかけ離れたところを引き合いに出しながら、しかもいつまでもやり続けること、それは時として暴力行為も含んでです。
身長が低いとか、顔がかわいくないだとか、そんなことは改善しえないことであって、永遠に出口のみえないことです、出口が見えないからこそ死を選ぶ子も出てきてしまう、これが悪いいじめなのですね。

いじめにという特別な意識なき子供時代は、人としての感情がむき出しですから、良いいじめというものを実によくつかって互いの成長を遂げています。
成長とともにそれぞれが持つ心の強さ弱さと関係しながら姿を変えるのがいじめです。

現在、何が問題化は、いじめという言葉が、すべてを包括してしまっているということ、簡単にいうなら普通の会話のでありえる、からかい程度の事ですら、受け取った人物の意識一つでいじめとなりるように、何でもかんでも、しかも少しでも不快を覚えれば悪質ないじめと同一に解されていることに有るのですね。

悪質ないじめ(出口のないいじめ)はすでにいじめという範疇を抜け出て、名誉毀損、脅迫、強要、暴行、障害等など、刑法犯罪となることばかりなのですね。
大人の世界であれば許されざる行為が、子供だからと平然とゆるされる。
実におかしなことだと私は思うのです。

今のいじめが非常に悪質な原因は、実に簡単です。
子供達の心が弱いということ、自分を振り返るという簡単なことさえも出来ない。
なんていったって、ほめて育てられているから、自分のやっていることすべてが正しいとして成長しているのですから無理もありません。


ゆとり教育見直しってな~ おい!

2007年01月25日 | 研究-教育・育児

学力低下は授業時間が減ったからというような考え方。
あほかー?と思ってしまうのですね。
なんか視点がずれている・・・・・

学力は時間を増やすことで上がるものではなく、授業に対する集中力こそが
一番効果をあげるわけですが。
ほんらい子供は勉強を楽しいなどとは思わないもの、ゆえにそうした子供達の学力を向上させることは、我慢や忍耐とは切っても切り離せないものなのですね。
嫌いでも、授業になれば先生の顔を見て、言葉を聞き、黒板をノートに写し、そうしたことの繰り返しの中で出来るようになっていくのがごく普通の子供達なわけです。

昔は先生は怖い存在で、怖いから授業を受けいたと私の記憶にははっきりと残っています。

ところが今の先生は生徒とお友達でなければいけないわけで、先生という立場になってしまうと権力者=支配だと攻撃されるわけです。

教室に強い指導者あってこそ、そのクラスはまとまるわけで、皆さんの経験に有るかはわかりませんが、中学生くらいになると、科目ごとに先生が異なるために、先生によってはおとなしい人もいます。
たいていは1クラスに一人や二人は授業妨害などする子がいましたから。
先生によってはクラスがめちゃめちゃになるならないが有った訳です。
生徒はこうした妨害に不愉快を覚えています、しかしながら、誰しもがいえないことが多いわけで、こうした場合、先生がそうした生徒に毅然とした態度が取れる場合はその時間は割りときちんと進みますし、なによりその先生に対しての信頼が非常に高くなる。
ところが、何もいえない先生だと、まじめにやっていた生徒までだんだんといい加減になって、最後にはめちゃくちゃになってしまう。
こうした事は何度か経験しています。
子供はバカではありませんから、こうした先生の力を常に見ていますし量ってもいるわけです。
学級崩壊と学力低下を含めてこれすべて、先生という存在を友達レベルにまで貶めてしまったこの国の教育行政の過ちでもあり、また人権の名の下に体罰を禁止してしまったどうしょうもない評論化はじめマスコミの責任でもあるわけです。

国が法律を改正し、体罰を認めてしまえば当たり前のように問題は激減するわけです。
11条の改正を心から願うのですがね・・・・

さて明日は、良いいじめと悪いいじめ、という一軒見分けにくいいじめの問題で、誰にでも簡単に見分ける方法を書いてみたいと思います。


掟破り

2007年01月24日 | バイク

姪が2月から一人暮らし、というわけで、原付をプレゼントしてしまう話は以前ししたかと思います。
少しずつあちらこちらを仕上げて数日前に完成。
おおー!と感心するほどの加速と調子よさ、「新車並だぜ・・・・ふっふっふ」とほくそえんでいたら、なんか電装系の(バッテリー)の調子が悪い。
というか原付のバッテリーはすぐだめになるのが当たり前。 というか、乗ったり乗らなかったり、のっても数分とか、そういった使い方をしている人が大半(それが普通だろ)のため、新品のバッテリーつけてもすぐ駄目になる。
だから原付からキックがなくならないわけだけど、バッテリーが駄目になるとライトやウインカーがおかしくなり、かといって取り外すと原理的に電圧制御(AVR)が適正に調整できなくなるために、明らかに調子が悪くなる。

もちろん1万円もするバッテリーをみすみす駄目にすると分かっていながら取り付けてあげるほどのお人よしではないので、こうした場合の掟破りの方法をとることにした。

簡単に言えば、でかいコンデンサをつけてしまえばよいわけだ。
ほっと稲妻などという似たようなものが商品として出回っているが、そんなおもちゃ程度のものではなく、バッテリールームに満杯になる大きさのでかいやつをつけてやる、もちろん捨てる機器からの廃材利用で、それに取っておきの秘密兵器(これが何かは絶対に明かしません、すぐ人の知識をただで盗んで商売するやつがいるからです)を取り付け、ほくそえみつつ、かつ「だははははは」と笑いながら取り付けを行い、キック一発カマスと「オッシャー!」。
当前のことながらバリバリに調子が良い、電装が100%以上(多分)の性能を発揮しています。 
これ、実は電子工学の知識と車の電装に関しての詳しい知識、そして私の独自経験を加味して出来ることなのですね。
コンデンサ取り付けだけではここまで性能を発揮することはありませんので注意。

そんなわけですべて完了、しかし自分でも感心してしまう程の調子よさ、これ、商品化してみようかなー (^^;)


これってかいて良いのかな?

2007年01月24日 | 研究-教育・育児

どうでも良いような私のHPですが、ときおり政府関係の処?と思われるところからアクセスがあります。 もちろん明らかに分かるようにはなってませんが、????とだいぶ前から思うことがしばしばあるわけです。
なぜそれが分かるか?と明確に言えるものではありませんがサーバーのアクセスなど詳しく解析しているとだんだんと分かってくるわけです。
まあ、私のHPに来ときがあるのは、スクールのHPとくっついていますので、その流れだと思います。

表にはしないけど様々な情報を集めているのが政府機関でもあるわけですから。

*当時は自宅サーバーの運用でしたので解析が出来たんです (^^) 2013年 11月 18日


ゼロトレランス

2007年01月23日 | 研究-教育・育児

http://www.asahi.com/edu/news/TKY200701130332.html
を見てください。
規律を厳しく守らせる(私の青年時代は当たり前だった)ゼロトレランスの現実的な効果の程が良く分かります。
朝日さんの最近の姿勢に好感を持っている私としては、非常にバランスの取れた記事になっていると思います。
子供達に必要なのは、必要不可欠な規律と厳しさで、それが、子供達を大きく成長させます。
規律と厳しさがあれば、子供達自身はそれを受けて様々なことを考えます。
この考える力こそがとても大切なもので、その力がこそが様々な工夫と自分を適合させる大切な能力を育てます。 徳育はこうした簡単なことから始まるわけです。

忽然とした態度は子供自主性を奪うと大反対している者は、ほぼ全員といってよいほど厳しい教育を否定しています。
しかしこの記事の中に読み取れる子供達の姿、例を挙げるなら
”指導を繰り返すうちに、遅刻や欠席も減ってきた。”という部分、そして”暴力や教室を出て歩き回る生徒はいなくなった”という部分。
これすべて、子供達が自分でどうすべきかを自分で考え、自分で行動するからこその結果であって、これこそが本当の自主性を育てることだと私は思うのです。 自主性とは、我慢と忍耐の副産物であり、我慢と忍耐なくば、自主性など育つはずも無いからです。

間違いだらけの自由と人権意識、体罰反対の旗印の基に、なんら子供につらい思いをさせない教育が生み出した400万人近い引きこもりとニート。
この理論と対決する考えは、今日も苦しむ子供達を増やし続けているわけです。

 

不安定

2007年01月22日 | Weblog

週末にサーバーへ手を加えたところ、なんか不安定。
昨日の夜に一度システムを落として古いものに総入れ替えをしました。
このあたりが管理の面倒なところというか・・・

さて沖縄は相変わらず天気が不安定なようです、沖縄の状況報告は次の週末になるかと思いますが、忙しい中にメールを頂いているので、感謝しています。

何回も書いていますが、今回はたった一月、以前は一年だったのですよね。
そのときはただ時間が過ぎるのが待ち遠しくていたのですが、その感覚がよみがえってきます。

今スクールで生活している生徒の親御さんがどんな気持ちでいるのか、というのを再度認識するわけでもあり、なんともいえない気持ちにもなります。

長いようであっという間に過ぎる月日ではありますが、その間親が何をなすべきかは、それまでの自分達がいかなるものだったのかを真剣に考えるべきとおもうのですが、残念ながらいくら考えたとて、親という人間そのものは変われません。
いくら変わろうとしてもけして出来はしない、その人間の本質は数十年という年月が作り上げたもので、それをわずかな期間にて根こそぎ返る事など出来るはずも無いからです。
ただ、忘れてならないのは学ぶことは出来るということ。
どうするべきか?、何が悪かったのか?とです。
スクールの一年は子供の中にあった不足しているものを満たし、親にしても先生にしても、他人の言葉をきちんと受け取り、自分なりの答えを出す強さをもたらしてくれます。 我慢と忍耐が充実するからです。

だからとて親の期待とわがままで寄りかかって良いものでは有りませんから、そこで一年をどう過ごしてきたかという事が問われる・・・・

今スクールで過ごしている子を思うと同じくらいに、自分というものについて考えてもらいたいと私は思っています。


換気扇取り付け

2007年01月21日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

例の壊れた換気扇の新品が届いたとの連絡ありで取り付けに行きました。
同じ品物とはいえ、微妙なところでサイズが変わっていたりするのが工業製品。
心配しながらも現物を取り付けると大丈夫。

配線も以前の手抜き状態?をきちんと処理して終了。

スイッチONでおー!シロッコタイプは強くて静か、家のグワォーと音がする安物とは大違いです。

と貧乏なうちにはグワォーで十分なのですが・・・

その後は二階のバリアを最終仕上げして、すべて完了となりました。

ごみを車に積んで、帰宅がてらまた職場へ、今回は交換したポイントの微調整とエアクリーナを交換、新品がないので、手製のものへ変更。
まあ簡単にいえば、レーシングカーに使用されるウレタンスポンジをはさみでチョキチョキして作り出し、それへ変更しただけのことです。

走り出すとこれまた おー!なんとも加速がよい! るんるん気分でホームセンターへいってスパークプラグを購入、日の落ちた暗闇の中、「痛て!」とか「このー!」とか言いながらごそごそ交換しました(ゴキブリみたいだな)。

あとは愛妻の手製おつまみで飲んだくれて寝るだけ!

ところで息子がいない????と大学がすでに決まっている息子は全力で遊びまくっています。 
うむむ・・・(--;)
青春だなー・・・(^^)
なんか羨ましい・・・・(。。)
少したるんでる?・・・・(--”)
いや余計なことは言うまい・・・・・(@@)
しかし・・・(--:)
だはは(^^;)
フー(--;)・・・・

まあ、いつものように穏やかな一日でした。


3日

2007年01月18日 | 研究-教育・育児

たった三日で一月もいないように感じられるのは何故なのでしょうかね?
はるか前に息子がスクール生活をしていたときは、漠然とした不安のようなものが常にありました。
それが良いことであるのは分かっていたのですが、結果として元気な姿にあうまでは、こうした表現し様がない状態の心が抜けなかったわけです。
反抗期(これから?、すでに?)の入りかけである娘には、親という存在がいかなるものかということを学ばせることは、一緒に生活している以上、至難の業であるともいえます。
話して聞かせることも出来ますが、現実体験の比ではありません。

親とはなれる、それも数日ではなく最低でも一月、何の連絡も話すらも出来ないという完全に切り離された環境、さらに多くの他人との生活することによって、初めて自分という存在を振り返ることが出来るようになります。
娘の場合、自分から進んでの合宿ですから、こうした精神的な成長が早く進むのですが、これが甘えきった状態で入校した(すでに引きこもり、非行等の真っ只中であったスクール生)場合は、入校後の一月は親への恨み節ばかりで過ごす事になります。
その場にいない親を散々恨んで恨んで、しかしながらそうした時間がなければ、その先に訪れる不思議な心の変化を知ることはできません。 それが来るのが大体入校後3ヶ月くらいまでの間です。
親という甘えの対象から完全に切り離されることで、親を見つめなおして、同時に自立心が出てくるわけで、そのための最低必要な時間といえるかもしれません。
この間は苦悩を伴いながら大人への階段を走って駆け上がっているのと同じなわけで、相当につらいものであることは想像に難くはありませんが・・・・。

合宿においては、自分の意思とは無関係に来ている子が普通ですから、こうした子達にとって、ウインド訓練はただの苦しみでしかありません、楽しさが分かってくるレベルまで上達するまではそういうものです。 やりたくも無いことをやらされて、居たくも無いところにいさせられて、厳しいし、すべて自分のことは自分で責任を持たされる生活。 

そんな生活空間に、自分の意思で、しかもはるかに自分より年下で、しかも女の子が来るということ、さらには自分達と同じ生活をし、同じ訓練をうけることは、現スクール生に多大なるショックをもたらすはずです。

自分は逃げることだけを考えてすごしているのに、真反対の考えを持つ子がいるということ、その姿をみて、驚愕し、恥をかき、自分に怒りを覚え、「なにくそ!」、「俺だってやってやる!」とならねば、非常にみっともないことですし、なにより情けない。

娘は同じ学年の中でも小さいほうでしかも非力、でもウインドレベルはレーシングボードでプレーニングし(私は追いつけません)、ジャイブもこなすレベルにあります。
ウインドの技術レベルが立場でもある合宿生活において、いきなり来て上位に存在してしまう事は、年齢うんぬんではなく、努力の差というものを見せ付けられることでもありますから、生徒達にはどうするべきなのか?をそこから学んでもらいたいと私は思うのです。

このところ沖縄は雨、それでも気温は20度以上、もちろん太陽が出ればTシャツでも過ごせます。

羨ましい・・・・と思ってしまうのも正直な心です。




誤字脱字

2007年01月17日 | 400万アクセス お礼

相変わらずひどいなーと自分で思うのが誤字脱字。
全く気にしないせいもあり、意味不明難解な文章になっていることも?

というのは人間めんどくさがりやです、誤字脱字や文章の体裁をあまり気にしすぎると続かない・・・・

体裁気にするなら続けられるかを気にしろ、中身がよければ?それでよし、
意味不明難解はパズルで頭の体操(読む人が)と考えれば四方円満! 
だよね(^^;) はは

* 以前の自宅サーバーの時の記事 2013年11月18日 転載


電子技術者&ネットワーク技術者&通訳

2007年01月17日 | Weblog

仕事柄最先端のPCやネットワークと無縁ではいられないのですが、こうした高度機器は必ず相性というものが存在します。
たいていは統一規格によって動くように設計されているものの、
現実にはそうはいきません。
ディジタル信号の基礎はあくまでもアナログであって、信号そのものはアナログで出来ていますから、コンバータの性能により、波形ひずみやノイズの問題、などによりビットエラーがおきたりと様々なことが起きます。

こういった問題は以前と比べてかなり解消されてはいるものの、いくら早いとはいえ1秒間に地球7週半程度のスピードではGHzクラスのクロック上の伝達遅延との兼ね合いはバカにならないものがあり。
PCのマザーボードなどは、その設計の大半を信号線の均等長設計にさかねばならず、又それをどう解決するかがメーカの技術ではあるのですが。

あれ?話がずいぶんと横道にそれましたが、そんな最先端のカードが旧態依然として存在する規格、しかも依然としてピンを差し込むソケット形式の接続を持っていることが不思議といえば不思議。

うまく動作しない原因がソフトに有るのか、本体にあるのか?なんて悩んだりしているのも私の仕事の一部。

そこにきて、やれ誰が来たと通訳してくれだの、機器が調子悪いから原因を説明してくれだの、詳細を知りたいから本国に電話してくれだのと、何で日本人の私があんたらのお国の言葉で話さねばならんのかと思ってみたり・・・

なんか????が多いのも私の仕事。

とはいえ、頭だけ回転させていればよいわけですから、恵まれてはいるので感謝しなければ・・・・・。

なんでこんなこと書いているのだろう (--;)


次から次へと

2007年01月16日 | バイク

やらねばならないことが起きてくるのはなーぜ?

と今日はバイク屋に変身、というのは、今年の2月から親元離れてくらす姪のために原付バイクをプレゼント、といっても、中古のバイクですが。

一年後には戻るそうで、新車買うにはバカらしいしい、中古ならというわけで、家にねむっていた原付を復活させるべくオーバーホール。

ピストンやシリンダには問題ないので、キャブレターや遠心クラッチミッションを分解整備、続けて伝送系を調べて前後のブレーキをオーバーホール。
等など、正月明けからやってきたのですが、今日はタイヤ交換。

新品のタイヤをYahooオークションで落札1300円店で買うと最低3900円ということで、さらに交換工賃1500円を払うのはいかがなものかと自分で交換。

例のごとくチューブレスのためにビードが落ちず、バイスではさんで力任せにはずし、特大タイヤレバー(手造り)でぐいぐいと入れていきます。

コンプレッサーで勢いよくエアを入れるとズバン!という音とともに完了。

あとはバルブを入れてエア調整で出来上がりです。

正直なところ、原付はおもちゃですから何の苦労もありません。

あ!以前仕事(バイク屋さんではありません)でそうやってなめていて、一台300万もするスペクトラムアナライザーをポン!と燃してしまったのは私でした、ハイ! (^^;)


JAL

2007年01月15日 | 研究-教育・育児

飛んで行っちゃいました・・・・・

あさ4時おき、4時半に家をでて、青梅街道、少し混んでいる環状八号線をぬけ羽田空港に到着。

手続きを済ませて、空港内で軽い朝食、「なんか心臓バクバクする!」と言う娘を冷やかしながらのひと時。
親の心配なんか気にせず、割と平然とした顔で手荷物検査を抜けて行ってしまいました。
数時間後は青い空と海、白い砂浜の南国・・・・・。
これから一月は3人家族状態となります。
帰宅後の夕飯は息子も友達とすっ飛んで歩いていていないし、二人だけとなり、なんかあじけないものでした。
10年もたてば、一月どころではなく、嫁に行ってしまうのかと考えると
なんともいえない気持ちになってしまう私でした。

そういえば、たまっていた洗物を息子が全部やっていてくれました。
昨晩遅くまで出発準備(なんで早めにやれないんだろ、女性は・・・)していて、家内も手伝っていたので、夕飯の洗い物がそのままになってしまっていたのですね。

こうしたさりげないところで行われる親に対する気遣いは珍しいことではありませんが、息子に感謝。

将来海獣医として動物の診察をしつつシャチに曲芸を教え、同時にウインドの世界でもプロになれたら・・・という娘。
その可能性実現の一つとして自分から希望した今回の合宿。

親として何が出来るのか? そう自分に問答するわたしでした。