Miscellaneous Thoughts

思いつきから時評まで

Star Wars: Episode IIIを観た。

2005-07-14 07:36:22 | イギリス生活

イギリスでは4,5月から公開されているStar Wars: Episode IIIを、遅まきながら、最近、近くの映画館で観た。もちろん英語でである。(なので日本語でどうやくされているかわからない部分もいかにある。)

以下は、内容に立ち入って書くので、これから観たいと思う人は読まないでほしい。

さて、今回みにいったのは、いままでスターウォーズを全部劇場で、しかも公開すぐにみてきたからである。もう最後だし、せっかくここまで観てきたのだから、最後も観ずにはおれなかった。

で、内容であるが、Guardianにも論評されいたように、スターウォーズシリーズのなかでもっともバイオレントなものであった。大半が戦闘シーンである。

Guardianの公開直後の記事には、Lucas自身が、「今度の映画はアメリカ政府批判をこめたものだ。」と述べていたが、確かにそのようなシーンがあった。

典型的なのは、chancellorが議会で演説し、republicからempireに体制を変えるべきだとのべたところである。chancellorは、securityのために、今こそempireになるのだとのべ、議会に受け入れられていくのである。empireは、あたかも平和をもたらすかにみえるが、実は、自らがdark forceを本質とする暴力的で抑圧的な体制なのである。

Lucasが戦闘シーンを多くもちいたのは、戦闘が何も生み出さないことを意図していたものだと思われる。 ただ、もしGuardianの記事を私が読んでいなければ、この意図は通じなかったかもしれない。単なるSFのよくある戦闘シーンといわれてしまえば、それまでのような内容であった。

今回、もっともいただけないのはナタリーポートマン演じるパドメ姫が、あまりにも馬鹿げた役割しかもたなかったことだ。映画を通じて、ほとんどが、アナキンを心配して待つだけの女でしあった。パドメとは、こんなに魅力のない役だったであろうか。

もちろん、パドメ姫は、ルークとレイアを産むという重要な役割が与えられているのであるが、ただそれだけの役割しかなかったように思われる。女性には世代をつなぐ役割があるとはいえ、これだけを強調されてもどうしようもないし、繰り返すが、心配しながら待つだけの女性には何の魅力も感じられない。ナタリーポートマン自体、やや輝きを失いつつあるところにもってきて、こうした役回りでは、かなり損をしたといえるであろう。

ただ、オールドファンとしては、なるほどそうだったのか、とわかるところがあって、それはそれなりに満たされた。

以下、記憶に残っている部分を列挙しよう。

・猿男のチューバッカは、ヨーダが暗殺されそうになったときに一緒にいて、ヨーダが脱出したときまでお供していた。チューバッカは案外年寄りなんだな。

・ヨーダが脱出した宇宙船は、確か、ヨーダがはじめてできたシーンでもでていたように思われる。

・ダースベイダーがマスクをかぶっていて、なんだかサイボーグみたいなのは、オビワンと戦って負けたときに、手足を切り捨てられていたからである。つまり、ダースベイダーの手足は人工のものであって、実際、サイボーグみたいなものなのである。

・前シリーズの3作目で、ダースベイダーがヘルメットをとったとき、やけどのような感じになっていたのは、オビワンと戦ったときに、溶岩の火で丸焦げになったからだったんだな。

・ダースベイダーがあれだけの力をもちながら、あんなに帝王(?)に忠実なのは、命を救ってもらったからなのか。

・ルークの育った家にルークを預けたのは、オビワンだった。

・前シリーズでジェダイがほとんどいないのは、陰謀によって、ジェダイのほとんどが暗殺されてしまっていたからである。また、ジェダイになる前の若い子供たちは、全部アナキン(ダースベイダー)が殺してしまっていたのである。

・ダースベイダーになるのは、パドメを救いたいという一念だった。それゆえ、前シリーズでは、ルークとダースベイダーの関係が重要な役割を果たしたのである。

見終わってみて、これまたGuardianに見事にかかれていたが、Lucasもこれで引退できるね、じゃあね、といったところである。

オールドファンとしては、行き着く先がわかっているので、いろいろなシーンの意味がわかったが、新しく見る人にとってはわからないだろうから、それほど魅力がないかもしれない。映像のリアリティは、もはや、現代の最新の映画の方が圧倒的にすばらしいものになっているようにも思われ、寂しい気持ちにもさせられた。