Per Mariam ad Jesum!

不肖なる罪僕Maxの徒然

祈り

2017-05-11 23:47:35 | 教会とか
 「いのり」

 祈りとは人が天主様の御稜威と、其の限りない御慈しみや聖徳に対して、絶えず礼拝、感謝、償いの精神を養い深める心の状態を指します。

 宇宙の創造主、全知全能の主、無限に聖なる真の天主様を深く礼拝する心の状態で在り、我々に身体や霊魂、及び其の様々な能力、才能をお与え下さった無限に慈悲深い天の御父に感謝する心の状態で在り、数々の不忠や反抗に因って、其の無限に聖なる聖父に敢えて背いた事を、深く痛悔して其の御憐憫を請い求める心の状態で在ります。

 これらの心の状態を精神と言う言葉に言い換えると、礼拝の祈り、感謝の祈り、償いの祈り等と言います。

 しかし、口で幾らこう言う祈りを唱えても、真面目な心の状態、真面目な精神が無ければ、口先だけで天主様を敬うに過ぎず、値打ちの在る祈りとは決して言えません。

 祈りの主な目的は、全能全善の天主を礼拝し、これに感謝し、且つ御憐憫限り無き天主様から、自らが犯した罪の御赦免を願い、其れに対する償いを献げる処に在ります。

 其の他に天主様の御恵みを願い求める事も在りますが、其れを為すには、先ず天主様の御光栄と霊魂の救霊とを願わなければなりません。

 ところが、私達は自分自身の心を正直に調べてみると、往々にして天主様の御光栄や霊魂の救霊よりも、寧ろ現世の利益に関する事を祈り求めて居る方が多いのです。

 では、其の様なお願いをするのは、全く以って宜しく無い事でしょうか?と言う問いが出て来ると思いますが、天主様の御光栄と霊魂の救霊との妨げにならないなば、現世の利益を願うのも正しいと回答する事が出来ます。

 しかし、私達は現世の利益を願う時、果たして其の様な正しい心の状態を、正しい精神を保って居るでしょうか。

 私達が、信心、謙遜、信頼、及び忍耐を以って祈るならば、正しい心の状態、正しい精神の状態で在ると言えます。

 だが、信者の中には、困難や苦悩の折にだけ助けて貰おうとして祈る「苦しい時の神頼み」するものだと考えて居る様な者も見られるし、天下泰平、国家安穏、五穀豊穣、家内安全、無病息災等と、現世の利益幸福ばかりを願うのが祈りの本質だと誤解したり、剰えSNSやブログ等に於いて其れ等の誤謬を撒き散らして憚らなかったりする者も居ります。

 これらの大きな考え違いは、真の創造主なる天主様、天に在す我等の聖父に対しての、無礼、侮辱、忘恩に当たり、且つ、人に自分の罪を償う義務の在る事を知らない結果に他なりませんし、自分の行為を正当化する為に、恣意的な言い訳ばかりするのも同様の事ではないでしょうか。

 「若"者」なる我輩に対する自戒の意味をも込めて此処に書いた次第で在ります。
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