Zooey's Diary

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切なく悲しいお伽噺「海の仙人」

2016年05月22日 | 


久しぶりに「感想を書きたい」と思う本に出会いました。
文庫本の帯のキャッチコピーは
「孤独に向き合う男女三人と役立たずの神様が奏でる不思議なハーモニー」。
宝くじで3億円が当たり、会社を辞めて海辺の町で釣りをしながらひっそり生きる河野勝男。
浜で出逢い、河野と惹かれ合うようになる、キャリアウーマンのかりん。
河野を遠くから思い続けながら、他の男とも付き合う片桐。
その三人に「ファンタジー」と名乗る奇妙な神さまが関わって来る。

そもそも「ファンタジー」って何者なのか?
突然、河野の前に現れて
「居候に来た、別に悪さはしない」とのたまう国籍不明の男。
”「神さん?」
河野が聞き返すと、ファンタジーは憮然とした面持ちで言った。
「親戚のようなものだ、中でも俺様は一番できが悪い」”
河野は訝りながらも、しかしファンタジーを自然に受け入れて行く。

この小説の登場人物はみな心優しく、適度な距離を保ちながら相手と関わっているのです。
お互いを尊重しながら、それでも結果的には傷つけ合うことになったりする。
過酷な運命に打ちのめされ、幸せになりたくてもなれない孤独な男と女たち。
片桐の台詞。
「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか? 
外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。
例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついてるだけマシだ」

文庫本の解説の、福田和也氏の言。
”孤独は「心の輪郭」であり、「最低限の荷物」だとするところに、絲山氏の真骨頂が現れています。
孤独から逃げ出すために他者と連なるのではなく、自らの孤独を引き受けた者だけが他者を尊重できる、と。”

こんな説明じゃ何のことだか分からないでしょうが…
これほど相手のことを思っているのに、どうして結ばれることができないのか?
ここまで酷な運命を、どうして彼らは背負わなければならないのか?
そんな疑問が喉まで出かかっているのだけど、それを口にするのが恥ずかしくなるくらい、
登場人物たちは、静かに自分の運命を受け入れて行く。
大切な人や物を失った時の喪失感、そして失うまでの果てしない怖れ、
そういったものが淡々と、しかしキッパリと描かれているのです。
孤独な人間たちの人生の一断面を綴った、切なく悲しい御伽話。
心に深く傷を負った人への静かな応援歌、という気もします。

易しい文体はテンポよく、抑えたユーモアが効いていて
150ページ余りの短い本は、すぐに読み終わってしまう。
でも何度も読み返したくなります。
私は今日、結局三回読みました。
かりんが河野に出会った日に語った
「『よだかの星』の、おまえはこれから『市蔵』と名乗れと言われたところとか、悲しかったよね」
という言葉が、実は一番共感したところだったりします。

「海の仙人」絲山秋子 
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