劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

国立劇場の「心中宵庚申」

2018-02-27 11:25:03 | 文楽
2月24日の午前に国立小劇場で文楽「心中宵庚申」を観る。今月は三部制で、一部がこの「心中宵庚申」、二部が綱太夫の追善と織太夫の襲名披露、三部が「女殺油地獄」という、どれも主人公が亡くなる話。二部は人気が高く、売り切れたようだが、一部は土曜日だというのに7割程度の入りで空席も結構あった。

この作品は近松が書いた最後の心中物。普通だと心中というのは添い遂げられない男女が心中するという展開だが、夫婦が心中するという話で、ちょっと変わっている。二人が好き合っているのだが、意地悪な夫の姑に気に入られずに追い出されてしまう。夫は貧乏武士だったが、羽振りのよい商家に養子に入ったので、意地悪な母親に逆らえないという弱みがあり、心中を決心するという展開。

最初が姑に去れといわれて無理やり実家に戻された嫁の話で、上田村の段。文字久太夫が語る。出だしがちょっと躓く感じだが、そつなく語っていた。次が夫が戻った八百屋の段で、姑、夫、嫁の関係が描かれる山場となるがここを千歳太夫が語る。三味線は富助。いつもは全力投球で力いっぱい語る千歳太夫だが、今回は落ち着いた語り。最後に道行が付く。

去れと言われた不幸な嫁の千代を勘十郎が遣う。この人形が良い。実家でいやだいやだと言いながら、次の間に連れていかれる後ろ姿など、絶品だった。

河原忠之プロデュース「ヴォーカリストの華麗なる変身」

2018-02-26 10:47:44 | 音楽
2月25日の夜に新宿文化センターの小ホールで開催された「ヴォーカリストの華麗なる変身」を聴く。18時開演、途中20分間の休憩を挟み、終了は20時だった。約200席の会場で、八割程度の入りという感じ。若手のオペラ歌手三人が歌い、河原忠之がピアノで伴奏する。主催は新宿未来創造財団となっていて、新宿区に在住する河原氏がプロデュースしたようだ。構成と演出は原純だった。客は大半が関係者というような印象。

出演したのは若手でこれから売り出すという感じのオペラ歌手たちで、ソプラノの坂井田真実子、テノールの伊藤達人、カウンターテナーの眞弓創一というメンバー。

一部の前半では、各人の得意なリートを、二曲づつ歌った。日本の歌と外国の歌を、それぞれ一曲づつ。坂井田の「ぴあの」(谷川賢作)という歌が、最も印象に残る。歌の内容をうまく表現する能力を持っている。坂井田は「こうもり」のアデーレが抜け出てきたようなキャラクターで、出てきただけで楽しさを振りまく。オペレッタやミュージカルでも十分に活躍できるだろ。

一部の後半は、オペラやオペレッタの曲をそれぞれ二曲歌った。ヘンデル、レハール、シャブリエ、モーツアルト、プッチーニなど、最後に歌った伊藤達人の「ボエーム」の「冷たき手を」が素晴らしい。今の日本で、彼のようにイタリア風の明るい声で歌える歌手はあまりいないのではないだろうか。おまけに体格も良くて、素晴らしい声量だ。テノールは背が低いと相場が決まっているのに、彼は上背もありどんな役でもこなせるだろ。ぜひ、日本を代表するテノールとなって活躍してほしいと祈る。「冷たき手を」では素晴らしく開放的な発声で歌い、キウーゾで閉じた発声をしたのは、一番高い音だけだった。早くオペラで大役が付いてほしい。日生劇場の「魔笛」にも出演するようだが、武士1という役ではせっかくの美声がもったいない。「こうもり」のアルフレードか何かで出てくれないかなあと思う。

さて、休憩を挟んだ後の二部がお楽しみの「変身」となる。二部では、普段女性が歌う歌を男性が、男性が歌う歌を女性が歌う。単に歌が逆転するだけでなく、衣装もそれに合わせて逆転させる。女性歌手がズボン役で男性として出演するのはいろいろな作品で観るが、男性が女装して歌うのはオペラでは珍しい。中でも「トスカ」の名アリア「歌に生き、愛に生き」をテノールとカウンターテナーの二人に歌わせて、聴き比べするというのはめったにない機会だ。これは面白かった。先に歌った伊藤達人はテノールの迫力、後に歌うカウンターテナーの眞弓はオリジナルの音域で歌って見せて、すごい声量だけでなく情感を表した。これは衣装も含めて眞弓創一に軍配が上がると感じた。

感心したのは伊藤達人が歌った「椿姫」の「ああ、そは彼の人か」のアリア。ソプラノが歌ってもなかなか難しい曲だが、これに挑戦した。これが凄い熱唱で、男性が歌っているのを忘れさせるような名演。カバレッタ部分こそ少しテンポを落としたが、見事に歌い切って感心した。

河原氏の説明だと「ジェンダー・フリー」の企画だというが、こうしたことを真面目にやってこそ面白いと思った。こうしたちょっとひねった企画はまことに楽しい。これからもぜひいろいろな企画で続けてほしいと感じた次第。

帰りは、イタリア料理店で、シーザー・サラダ、魚貝のフリット・ミスト、ローマ風のピザを食べる。ワインは白。

国立劇場の「摂州合邦辻」

2018-02-25 11:45:01 | 文楽
2月24日の昼に国立小劇場で文楽『摂州合邦辻』を観る。八代目綱太夫の五十回忌追善と六代目織大夫の襲名披露を兼ねた公演となっている。追善公演というのは亡くなった人を偲び、個人の冥福を祈って「善行を追加する」ことに主眼があり、しめやかに落ち着いたムードでやるのだろうという気もするが、一方の襲名披露はにぎにぎしくやるのが一般的なので、両方を一度にやるのはちょっと大変かと思う。

劇場を入ると正面に八代目綱太夫の遺影が掲げられて、戒名もあったが、これが12文字というとても長い戒名で、すごいと感心した。長い戒名もよく見てみると、上に○○院というのが三文字あり、最後は大居士の三文字が付くので、真ん中は六文字で、そのうち一文字に「綱」の字が使われていた。

同じロビーの横に、襲名披露の祝いが飾られていて、歌舞伎界をはじめ多くの関係者からご祝儀が寄せられていた。一番真ん中には保守系政党の期待されている若手政治家からの祝いが飾られていた。お父さんはオペラが好きで、確かモスクワまで見に行っていたので、息子も芸能好きなのかも知れない。是非とも削られた文楽の補助金を復活してほしいものだ。

襲名披露なので、場内は満席。最初に「花競四季寿」と題して、「万才」「鷺娘」の所作ものというか景事があり、これは若手が中心になって、太夫、三味線とも五人の構成だったが、始太夫が亡くなったため、太夫は四人だった。始太夫は太夫としてはこれからの活躍が期待される世代だったので、本当に残念だ。この景事の後15分の休憩を挟んで口上があった。舞台上に咲太夫と織大夫を襲名した咲甫太夫が登場し、咲太夫だけが口上を述べた。

口上の前半は八代目綱太夫の追善に関するもの。口上によると、咲太夫は綱太夫の息子だが、昭和45年に歌舞伎の17代目勘三郎が、父親三代目歌六の五十回忌追善をやったのを見て以来、自分でもぜひ同じようにやりたかったとのこと。後半は織太夫襲名の話だが、咲甫太夫は八歳で咲太夫に弟子入りしているが、もともとは祖父が道八という伝説的な三味線弾きで三味線の家系だったが、どういうわけか太夫を志し、この度織太夫を襲名することとなったとのこと、織太夫の名称は八代目綱太夫が若い時に使っていたとのことで、それを聞くと、追善と襲名が一緒に行われる理由が良く分かった。

さて、今回の公演のメインは「摂州合邦辻」で、「合邦住家」だけが公演された。中を15分ほど南都太夫が担当、三味線は織太夫の弟である清旭。切が咲太夫で三味線は清治。最後の後が織太夫で、三味線は燕三という組み合わせ。人形は玉手御前は勘十郎で合邦が和生という豪華な布陣。やはり、襲名披露なので、現状で考えられる最上のメンバが揃った気がした。

切場では最初の玉手御前の登場を導く清治の三味線のまくらが情感がこもっていて素晴らしかった。咲太夫は現在では唯一の切場語りなので、この難曲を見事に語る。さて、後を担当した織太夫は、これまでにないほどの熱演ぶりで、燕三の三味線も良く、咲甫の時代よりも一回り大きくなった気がした。こういう襲名は大いに結構。本人も成長するし、観客も喜ぶに違いない。しっかりとした発声だし、これからが、楽しみだ。今回は三部制で、「合邦住家」の段だけだったが、あまりにも良かったので、もっと前の段から見たいと感じた。

中々結構な公演を観て、いい気分になり、終演後はいつものイタリア料理店で食事。生ハムの盛り合わせ、クロスティーニ、エスカベッシェ、サラダ、ピッツァ・ナポリターナ、からすみのスパゲッティなどを頂き、ワインも泡、白、赤と飲んだので、ちょっと食べすぎ、飲みすぎ、家に帰ってすぐに寝た。健康には良くなさそうだ。


山岡淳一郎の「神になりたかった男 徳田虎雄」

2018-02-20 14:15:46 | 読書
徳田虎雄は、徳洲会という医療法人グループで全国に病院を展開した人物で、難病にかかり動けなくなったが、未だ存命中の人物である。彼に関する本は、これまでにも何冊か出ているが、昨年末に平凡社から「神になりたかった男 徳田虎雄」が出て、新聞の書評でも面白そうだったので、読んでみた。2017年の出版で、320ページ程度の本。副題には「医療革命の軌跡を追う」とある。

徳洲会は医療空白地区に医療を提供するコンセプトで病院を増やすが、既得権益を持つ個人病院を持つ各地の医師会の反対を受けて、政治力が必要だと感じて、自ら政治家となり、道を切り拓こうとするが、病魔に侵されて志半ばで挫折する。一言で要約すれば、以上のような話だ。

徳田氏の原体験として、徳之島で十分な医療体制がなく、病気の弟の命を救うことができなかったため、日本での医療サービスの空白地区を無くすべく、病院を作ったのが最初となっていて、生命保険に入り、自分の命を担保にする形で銀行からの融資を受けたという逸話から始まる。徳之島をイタリアのシチリア島に模して、ギャングの生まれやすい風土だと説明している。

そこから前半は、いつでもどんな患者でも断らずに医療を提供するという基本方針で運営した話や、彼の理念に共感したスタッフたちの苦労話がつづられる。後半は選挙に出て金まみれの選挙で、病院の儲けを政治に注込んでいく話で、病院の理念が崩れていく様子が描かれている。

徳田という人物そのものをもっと克明に描いて欲しかったが、十分な資料が得られまかったのか、周辺人物や状況が説明されている部分が多い。それはそれで役に立つのだが、徳田氏という人物そのものにもっと迫ってほしかった気がした。

まあ、日本の医療の問題点などもこれを通読すれば見えてくるので、そうした点ではよく描けた本だった。

新国立の「松風」への疑問

2018-02-18 07:06:52 | オペラ
新国立劇場の新作「松風」を2月17日(土)の昼に観る。15時開演で、上演時間は休憩なしで1時間半。終演後に約1時間のトークがあると案内されたが、見ずに帰った。16日、17日、18日の連続3日の3回公演。オペラの公演では、歌手の喉の負担を考慮して、通常2~3日空けた形の公演か、キャストを変えての公演となるが、今回は同じキャストで3日間連続公演だ。1時間半の比較的短い演目で、ワーグナーのように長大な作品ではないので、毎日でも問題ないのかも知れない。

客席は満席といっても良いぐらいに埋まっていて、テレビ中継用のカメラの周りだけが空いている形。客層は年齢層が高く男性比率が高かった。男性用の化粧室で珍しく待ち行列ができていた。

今回の演目は日本人作曲家の細川俊夫が作曲してドイツで初演した作品をそのまま日本へ持ってきた形で、日本初演となってはいるが、ドイツ語での上演で、出演者もドイツ人が多い。劇場で配られた配役表を見ると、作者は細川俊夫/サシャ・ヴァルツの連名になっている。ヴァルツは振付と演出を担当している。確かに作品を観ているとオペラというよりも、コンテンポラリー・ダンスの作品に、歌声で伴奏を付けているようにも感じられる。

ダンサーには日本人も多く参加していたが、配役表ではダンスは「サシャ・ヴァルツ&ゲスツ」と表記してあり、ダンスのスタッフの名前は14名も記してあるのに、肝心の踊り手の名前が載っていない。配役表で名前が載っているのは歌手の4人だけだ。ヴァルツはこれまでにもコレオグラフィック・オペラなるものを何作か作っているようなので、踊りをメインに打ち出すのであれば、きちんと出演者の名前を載せるべきだろう。

今回の作品では、始まってから最初の10分間ぐらいは、踊りだけが続き、まったく歌が出てこないので、本当にオペラなのだろうかと心配になった。オペラに踊りはつきものであり、ヴェルディのオペラだって、パリのオペラ座で上演する時にはバレエ好きのパリの観客に合わせて、2幕の最初にバレエを入れたという。そうしたことだから、オペラと踊りを組み合わせるのは大いに結構だが、今回のダンスは「お行儀」が悪い。何が問題かというと、のべつ幕無しに踊っているので、歌手が歌っているときもその歌手の周りで踊り続けるのだ。それどころか、松風と村雨の二人の娘役の歌手は歌いながら踊る。これが歌と踊りの真の融合といえるのか。大体、歌舞伎でもオペラでも、誰かが大事な演技をするときには、他の人はじっと動かずに邪魔しないようにするというのが、古典的な演出方法であるが、歌っている間にもいろいろな踊りが続くので、見ている方は落ち着かない。

踊りはいろいろな動きが取り入れられていて、それなりに面白い。ロバート・ウィルソン風にゆっくりとした歩きがあるかと思えば、走り回ったりもする。そうした中で、新国立の合唱団も8人程度がコーラスとして参加。前半は舞台上でギリシャ劇のコロスのように歌ったり、ちょっとした踊りもする。後半になるとオケボックスの上手側に入り、簡単な打楽器なども使いながら歌を入れていた。

「松風」という演目はもちろん世阿弥の代表的な名作で、三番能の傑作といわれている作品だが、要するに恋が成就せずに終わった二人の乙女の亡霊と修行僧との出会いみたいな話だから、バレエの「ジゼル」と本質的には同じような主題だ。能の「松風」は大体600年ぐらい前の成立だろうが、その頃は人間は超自然的な物への畏怖もあり、こうした異界との交流や、神話的な世界を描いていた。もちろん、ギリシャ劇を真似て始めたオペラだって、最初は「オルフェウス」みたいなこうした異界との交流を描いてきたが、そうした世界観は啓蒙的な時代を経て19世紀にはほとんどなくなり、演劇の世界だって人間を描くようになってきたはずだ。こんな神話的なおどろおどろしい世界を描くのは、時代遅れのワーグナーが最後かと思っていたら、21世紀になってもいまだにこんな世界を描きたがるとは驚きだ。

勿論、古代的、神話的な世界を借りて、その中に人間を描くというのであれば、現代的な意味を持ちうるが、この作品にはそうしたテキストの読み直しの姿勢が感じられない。ただ、おどろおどろしい演出によって、何か人を驚かせようというように思えた。

細川氏の音楽はとても現代的で、パーカッションにより、日本の鼓のような音を出したり、フルートで横笛的な響きを再現していたが、それだったら、いっそのこと和楽器を入れたオケ編成をした方が良いかもしれないと感じさせる。抽象画みたいな音楽なので、30分ならばよいが、連続で90分きかされると、退屈する。序破急ではないが、もっとテンポの緩急や音色に変化があって欲しい。

まあ、こうした現代的な作品がもともとあまり好きでないということもあるのだが、新しい作品だとは思うが、面白いとは思わなかった。何を描きたかったのか、よくわからなかったというのが、最大の疑問点だ。

帰りは、いつものスペインバルで軽い食事。ワカサギのエスカベッシェなどを頂く。それでも「松風」の後遺症から逃れられずに、家に帰ってからもチョリソーとケソをつまみにして、シェリー酒を飲みながら、録画しておいたオリンピックのフィギュア男子シングルの決勝を観た。