劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

マイクル・ハード著の「西洋音楽史入門」

2017-08-31 13:11:35 | 読書
音楽史というとドイツ人が書いたものが多いのだが、英米系から見るとどうなのだろうと思い、イギリス人のマイクル・ハードの書いた「西洋音楽史入門」を読んでみた。

原題は「アウトライン・ヒストリ―・オブ・ヨーロピアン・ミュージック」なので、直訳すると「欧州音楽の歴史概要」とでもなるか。原著は1968年の出版、日本語訳は福田昌作で音楽之友社から1974年に出版されている。最初に書いてあるが、作曲家の伝記みたいなものは一切なく、歴史的に見て社会と音楽の関係から、どのような時代社会がどのような音楽を求めたかについて書かれている。

230ページほどの本で、1000年から第二次世界大戦後について書かれているので、まあ、簡潔な記述だ。

そうした中でも、古典派からロマン派へ移るベートーベンの位置づけと、ロマン派の解説が面白かった。つまり、ハイドンはパトロンを持ってそれに合わせて音楽を書き、モーツァルトはパトロンを持たずに好きに書いたが貧乏と苦労で早死にし、ベートーベンは緩やかなパトロンで音楽史上最初に自分の個性で書くことが許された人物だという総括だ。

ロマン派以降はベートーベンを踏まえて、個性合戦となってしまうので、いわゆる国民国家音楽や個性的な音楽がどんどんと誕生するが、ロマン派は古典派のアンチテーゼであり、科学の発達、つまり産業革命の進展から、逃避的な音楽だとしている。

なんとなくわかるような気がするが、とてもクリアな主張で、それなりに勉強になるし、フランス的な感性とドイツ的な理論主導の音楽との関係もわかりやすく解説されていた。

音楽史も、やはりいろいろな人の書いたものを読む必要がありそうだ。

寺西春雄著「音楽史のすすめ」を読む

2017-08-30 13:22:54 | 読書
このところ、きちんと音楽史を押さえておこうと思い、何冊か音楽史を読んでいる。まあ、どれも似たようなものかというと、そうでもなく、それぞれの本で、力点の置き方や説明の仕方が異なっているので、面白い。

ドイツ人の書いた音楽史が続いたので、日本人の書いた音楽史も読んでみようと思い「音楽史のすすめ」を読む。1983年の出版だから、まあ、古い本だといえばその通りだが、西洋音楽史は戦後の部分はまだ評価が確定していないので、古くて困ることはない。

200ページ弱の本だが、古代ギリシャの音楽から始まり、第二次世界大戦後までを扱った西洋音楽史であり、書名に「すすめ」と付いているが、あまり意味はない。ボリュームがないので、簡潔にコンパクトにまとめてあり、概観を知るにはちょうど良いし、記述のバランスも良いと思う。

コンパクトであるから、大作曲家の伝記的な記述やエピソードはほとんどなく、代表的な作品の名前が挙げられているだけだが、その中で簡単に作品の位置づけを述べているのがわかりやすい。

記述も読みやすいが、コンパクトなだけに遊びや無駄な記述もなく、無味乾燥だということかもしれない。

この本の良いところは、結構丹念に時代区分を定義しているところで、それは出来上がってくる作品は、そうした時代区分の社会の反映でしかないというスタンスがはっきりしているためだろう。

一読に値する本だ。

ボグダノビッチ監督の「マイ・ファニー・レディ」は映画マニアっぽいが面白くない

2017-08-29 11:23:22 | 映画
衛星放送でやっていたピーター・ボグダノビッチ監督の「マイ・ファニー・レディ」を観る。原題名は「シーズ・ファニー・ザット・ウェイ」だから、「おかしな彼女」ぐらいの意味か。

コール・ガールをやっていたイモージェン・ブーツが、思わぬ誤解から舞台女優として成功する話を、インタビューと回想形式でまとめた2014年の作品。シチュエーション・コメディを狙ったのだろうが、ちっともおかしくない。台本と演出のリズムが悪いのだろう。

ピーター・ボグダノビッチは、1970年代の初頭に登場して、「ラスト・ショー」とか「ペーパー・ムーン」で、なかなか良いなーと思っていたら、1975年の「アット・ロング・ラスト・ラブ」(やっと実った恋:日本未公開)でこけた後は、どうも鳴かず飛ばずで良い作品がない。

「ラスト・ショー」などを見ていると、本当に映画マニアで、映画が好きなのだろうといいう感じがするが、それは最近の「マイ・ファニー・レディ」を見ても続いている。映画の中で引用されているのは、おそらくはエルンスト・ルビッチ監督の古い映画のセリフだが、今では誰も知らないような作品の引用だ。あまりにもマニアすぎて、誰もついていけない気がする。

ルビッチ監督の映画からセリフを引用するのではなく、あの洒脱なムードの演出をまねて欲しいと思った。

現代日本にこだわって失敗した「ミカド」

2017-08-27 09:41:03 | ミュージカル
8月26日(土)のマチネーで、新国立中劇場の「ミカド」を観る。新国立劇場では地域交流の観点から、地域で上演された作品を招聘する制度があるとのことで、今年はびわ湖ホールで8月上旬に上演されたギルバート&サリバンの「ミカド」が招聘された。ギルバートとサリバンの一連のオペレッタ作品は、サボイ・オペラと呼ばれているが、パリのオッフェンバックのオペレッタのヒットに刺激されてイギリスで上演されたオペレッタであり、いわゆるオペラではない。

日本ではあまり上演されることがないので、楽しみにしていたが、見なければよかったという感じの出来だった。ギルバートとサリバンの作品では「ペンツァンスの海賊」が最もポピュラーであり、欧米では最近でも上演されている。「ミカド」もそれに次ぐ人気作かもしれないが、つい最近もアメリカの地方劇団が上演しようとして、白人が東洋人を演じる事の不自然さを指摘する反対運動が起きて公演が取りやめになってしまった。そんなに目くじらを立てるほどのことはないと思うのだが、それがアメリカの現実なのだろう。

日本では、記憶によると40~50年ぐらい前に長門美保歌劇団がこの「ミカド」をレパートリーにしていて、毎年のように公演していたが、最近はほとんど公演がない。イギリスでもドイリー・カート歌劇団がギルバートとサリバンのオペレッタを長く上演していたが、最近は解散したらしくほとんど上演されなくなってしまった。

ということで、久々の上演を楽しみにしていたのだが、この「ミカド」は日本を舞台にしているだけに、日本で面白く見せるのは結構難しいと感じた。今回は日本語に翻訳しての上演なので、どう翻訳するかもある。

まあ、当時のギルバートとサリバンの作品は、ヴィクトリア朝時代の社会世相を風刺的に描いているわけだが、そうした時代性を持った作品を現代日本で上演する時に、当時のまま上演して解説付きで理解しようとするのか、現代に置き換えて、現代を風刺的に描くのかは大きな決断だ。今回の公演では、現代日本を風刺的に描こうとしたのだろう。

しかし、現代の風俗をいくら取り入れても、歌詞を超訳で大胆に書き換えても、劇の構造自体が、朕は法なりというミカドの気まぐれに振り回されて物語が展開する構造を変えるわけにはいかないので、中途半端に現代化すると、バカみたいな話となってしまう。

主役のナンキプーは、本当はミカドの跡継ぎ息子だが、望まない結婚から逃げるために「放浪のミンストレル(旅芸人)」となっている。それをストリート・シンガーに置き換えるのはまだしも、冒頭の宮廷の官吏たちのコーラスを現代日本のサラリーマン像に置き換えたのは意味不明だろう。この場面の歌では「操り人形のように動いているのは宮廷のエチケットだから」みたいに歌うはずなのだが、まったく意味不明の日本産業賛歌のような歌詞になっている。日没を迎えつつある日本の産業をいまさら称える時代錯誤の精神は理解不能だ。演出家は新聞を読んでいないに違いないと確信した。

一事が万事この調子で、現代日本を意識しすぎたために破綻した舞台となった。当時の状況からして「ミカド」というのは日本を意識して書いたというよりも、オペレッタは本質的にエキゾチズムというか異国趣味が必ず取り入れられるので、そのために日本を舞台として借用しているにすぎないはずだ。そうであれば、リアルな日本を描こうとするのではなく、一体どこなのか判らないような異国的な雰囲気の舞台にする必要がある。

そうした演出手法というのは、宝塚歌劇が昔から苦労して作ってきた伝統があり、白井鐵造などはうまいものだったが、今回の公演は宝塚風の演技を取り入れる一方、全体のムードとしては道頓堀に近い松竹座で観るOSK(大阪松竹歌劇団)のこてこてのムードに近い。これだったら、宝塚あたりの演出家を借りてきて演出させた方が、もっとまともなものを作るだろう。

演出は中村敬一となっていて、いろいろと実績もあるようだが、決して良い演出だとは思えない。今回の2幕で、ミカドを舞台中央に座らせて、その前で首切りの執行状況を説明する時に、ミカドに尻を見せて客席を向いて演じるなどあり得ない。普通はこうした場面では、ミカドを上手に座らせて、下手側で演技をさせるだろう。こうした調子だから、全体として陳腐な舞台に出来上がっている。

訳詞も中村敬一のようだが、ぶっ飛んだ翻訳で感心しない。2幕の小鳥の失恋の歌でウィローをそのまま「やなぎ」と翻訳しているのは、間違いではないが、「やなぎ」は花言葉で失恋を表すからここで使われたことを踏まえた翻訳が必要なのではないか。オセローの最後に出てくる「やなぎの歌」と同じだろう。

肝心の音楽については、特に問題なく楽しめた。オケも歌手もそれなりの水準で、ナンキプー役の二塚直紀、ココ役の迎肇聡は特に声が良く出ていた。衣装はヘンテコだが、まあ、こうしたものでもよいかも知れない。装置は現代日本の写真を使っているが、これは前述したとおりに作品に合わない。

観終わって、飲まずにはいられないような気分となり、近所のスペインバルで、ムール貝のコロッケ、イベリコ豚のスペアリブのロースト、魚貝のパエリヤなどを食べながらワインを飲んで帰った。


パウル・ベッカー著「西洋音楽史」

2017-08-26 10:53:24 | 音楽
河出文庫のパウル・ベッカー著、川上徹太郎訳の「西洋音楽史」を読む。大変古い著作で、解説によると1924-25年にラジオで放送した番組をまとめたものとなっている。ラジオ番組だから大衆的かというと、そうではなく結構哲学的な部分もあり、インテリを対象とした話になっている。ラジオ放送が本格的に普及したのは1930年代のことだから、まだ金持ちしか受信機を持っていなかった時の放送だ。

原著は「音楽形式の変容史としての音楽史」として1926年に刊行されたものを、川上氏が翻訳して1951年に創元社から翻訳が出たようだ。古い本だといっても、今読んでも新鮮な部分が多く、教えられるところがある。著者の基本的な姿勢は、音楽は社会的なニーズに基づいて誕生しているので、社会の変化に応じて「変容」しているのであり、決して「進歩」していると考えてはいけないと、力説している。

従って、これまでは音楽家の個性や天分によって音楽が誕生したように書かれていたが、そうではなく、時代に応じてそうした形で音楽が変容していると説く。音楽の軸を宗教音楽と世俗音楽、汎民族的(世界的)音楽と民族的音楽、多声音楽と和音音楽などの切り口からこれまでどのように変容してきたか、なぜ変容してきたか、を解き明かす。

更に最終章では、音楽の変容史の中に大きな法則を仮定して今後の進む方向を予想している。この話を読んで感じたのだが、いわゆるクラッシック音楽は袋小路に入ってしまった感があるが、この本が書かれた後の世界のポピュラー音楽の歴史を見ると、著者の予想したとおりになっているような気がした。

内容が哲学的で、結構難しいことを言っているが、日本語も頑張って訳してあるところが立派だ。文庫で250ページの本だが内容は充実している。