龍の尾亭<新統合版>

foxydogのメディア日記です。
(写真は阿蘇山にて)

『いくつもの声』ガヤトリ・C・スピヴァクが胸に沁みる

2016年10月13日 01時11分31秒 | 大震災の中で
スピヴァクといえば『サバルタンは語ることができるか』が超有名だが、よく理解しているわけではない。
だが、語ることばを持たず、語り得ないものを抱えながら沈黙の側に立っている「幽霊」のような存在を、「こちら側」(見る側)から言語化していく行為だけではたどり着けないその場所に対する感性のことなら、少し分かる気がする。

なぜなら、原発事故後5年を経た福島では、今、本当に「語りにくさ」を抱えた人の姿が見えにくくなってきているからだ。

こんな風にブログを書いている側の「私」はもちろん「語り得ない者」ではない。スピヴァクを読んで「なるほどね」」とか思っている「私」は、その幽霊の気配すらつかみ損ねている。

さて、ではどうするか。
いったい「オレ」は、複数の声がほの聞こえる裂け目の近傍に立ちつつ、「幽霊」の気配がすると指させばいい、とでも思っているのか?

そんな「今」に必要な本が、この『いくつもの声』というスピヴァクの講演集だ。
2012年日本で「京都賞」受賞のため来日して、4つ講演をしている。その記録なのだが、実に興味深い。

P109「私には現実に精神を変えることには成功していません。つまり、三〇年ものあいだ手仕事で身を立て、知的労働への権利を否定されてきた人々の精神を変えることができていません。変えることはできませんが、それでも、動き続けなくてはなりません。なぜなら、もしかしたら一人くらいの生徒であれば変えることができるかもしれないからです。」

P101「私が建設したいのは精神であり、欲望を強制によらずに再構築することであって、上から恩恵をたえようとする慈善事業ではありません。」

P90「哲学者が私に対して『私にはわかりません』というとき、実際のところ哲学者が意味しているのは、『あなたは哲学によって学ばれる知性の諸条件を満たしていない』、ということです。つまりそれは、「私は理解しない」ではなくて、「あなたの言っていることは意味をなさない」、ということです。こうしたことが起きるとき私は、その人(哲学者)が自分の専門にとらわれていることに気づきます」

いろいろ考えさせられるわ。


ぜひ一読を。そして感想プリーズ、です。
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