GRの戯れ言日記2

元々閉鎖された別会社のブログの記事を引用して来た物。2014年3月27日以降です。それ以前は、はてなブログに書いてます。

快挙の塊

2016-10-15 23:18:19 | 野球

 先日の茂木栄五郎(楽)の"新人年(ルーキーイヤー)にシーズン(年間)2本ランニングホームラン"を放ったんは、戦後では"史上初"の事でした!!おめでとうございました!もちろん一年間で複数ランニングホームランは、"ルーキーでなければ達成した選手は、何人か居ます"。
 山田哲人(ヤ)の"2年連続トリプルスリー(3割・30本・30盗塁以上)達成(.304・38本・30盗塁)"は、これも史上初の事です!!!ほんまにおめでとうございました!!故障離脱してなければ、本塁打王・打点王も同時ゲット出来たかも知れない(ちなみに盗塁王を獲得)ですね・・・
 あと山本一義(<現役時代>広島<監督>ロッテ)氏が、亡くなられました。山本って姓は多すぎますが、もしかしたらミスター赤ヘルの山本浩二が、山本浩二や山本浩や浩二と呼ばれていたのは、ピーコの少し先輩で先に広島に入団していた彼の存在があったからやないか?と思われますね(汗)一義の方の山本氏は、法政大学から1960年オフに出身地である広島に入団。1年目から中距離打者としてレギュラーを獲得し、以降は巧打の4番打者として活躍。タイトル獲得は無かったが、打率ベストテンには5回、3割を2回マーク。低迷期のチームにあって地元出身の生え抜きのスター選手として大きな役割を果たし、チームの主将を務め、コーチ兼任となった1975年の初優勝を見届けて現役引退しました。引退後も広島に残って一軍・二軍打撃コーチを務め、監督の古葉竹識と共に高橋慶彦・山崎隆造を球界の先駆けとなる「スイッチヒッター」に育成。広島退団後は監督の西本幸雄の招聘で1980年から1981年まで近鉄の一軍打撃コーチを務めた。1981年オフ、大学の先輩である鶴岡一人の推薦によりロッテの監督に就任。1982年は落合博満の三冠王獲得に尽力した。1983年は球団史上初の最下位となり解任されたが、シーズン後半は、高沢秀昭やスイッチヒッターに転向させた西村徳文ら、若手を我慢して起用して育てた。監督退任後は鶴岡の計らいで1984年~1985年まで南海の一軍打撃コーチを務め、山本和範・吉田博之らを育てた。南海退団後は野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家、カープアカデミーコーチを経て、1994年~1998年まで古巣・広島の一軍チーフ兼打撃コーチを務めた。金本知憲・木村拓也の育成も有名だが、キャンプで打球が前に飛ばなかったルイス・ロペスをセ・リーグ史上ただ一人、来日1年目から2年連続3割100打点(打点王)を獲らせるなど多くの強打者を育成した。金本監督は「三村さんと山本一義さんは野球界の恩人」と著書に記している。晩年はプロ野球マスターズリーグに所属しながら、母校・法大の臨時コーチ、全日本少年硬式野球連盟大会会長などで後進の指導にあたる他、日刊スポーツで評論を行っていた。9月17日に亡くなっていましたが、25年ぶりにリーグ優勝を果たした広島に配慮した本人の意志により公表は10月3日まで伏せられてました(凄く配慮しているなぁ)・・・スラッガータイプやと思ってましたし、マツダスタジアムにレリーフもありましたし、今までの野球勉強で当然知ってる人物でしたが、ここまでのエピソードは、知らなかったですなぁ(汗)通算成績は、試1594 率.270 171本655点 安1308/試260 97勝145敗18分 率.400 でした。合掌です(涙)

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