イタリアの泉

2006年8月29日より再・再渡伊。
苦節10年2016年2月フィレンツェ大学を無事卒業(美術史専攻)
さて今後は?

Villa Medici その1

2016年11月06日 17時17分14秒 | イタリア・美術

昨日から変な天気です。
昨晩も2時過ぎに雷と大雨で目が覚め、朝青空が見えたのに午前中はまたひどい雨。
今は青空が出ていますが…
まだ暖かいのが救いですが。

さて、ようやく重い腰を上げることに。
あげてびっくり、既に思い出せないこともチラホラ…だからダメなんだよね。
既に2週間前になりますが、念願のVilla Mediciに行った、という話はしましたよね?
まずその話を今日はしたいと思います。

Villa MediciはRomaと言えば、の超観光名所スペイン広場のすぐそばにあります。

今でこそ、この辺りは観光客の絶えないRomaの繁華街となっていますが、このお屋敷が建てられた当時、この辺りはRomaでもかなり寂れた田舎でした。

1576年Giovanni Ricci枢機卿所有だったこのお屋敷が、当時枢機卿としてRomaに滞在していたFerdinando de'Mediciの手に渡ります。
ちなみに現在Raiで毎週火曜日(今週最終回)でMadiciというドラマが絶賛(?)放映中なのですが、
ダスティンホフマンの出演などで鳴り物入りにスタートした、Raiの今年最大の、そしてお金かかってるなぁ~というドラマです。
撮影はフィレンツェでも行われていましたが、当時と今のフィレンツェではだいぶ変わっているので、Pienzaなどがメインで使われていますね。

こちらはMedici家の祖、Cosimo il Vecchioが主人公でドラマが展開しています。
この時代のこと、頭の中できちんと整理されてなかったのですが、ドラマの中で、CosimoがBrunelleschiにDuomoのCupolaの建設を託す話や、 
ギリシャ彫刻を収集したり、CosimoがDonatelloに依頼したフィレンツェのシンボルであるDavidが女々しいということが罪に問われていたりとかなり面白いストーリー展開で、
これはもう一度勉強しなおした方が良いかな、と思っていた矢先、友人が本を買ったとFBに載せていたので、思わず私も…なんて思ってしまいました。
読まなきゃいけない本は既に山積みなのに…
ただこれ、結構歴史的にどうなの?という場面もドラマとして面白いということなのでしょうが入っているな、といういう感じ。
アメリカ人の監督で作ったドラマですから仕方がないですかね。(オリジナルの言語も英語だと思われます。)
あくまでも史実ベースのフィクションのドラマ、と割り切って見る必要が有りますね。 

Ferdinando de'MediciはこのCosimo il Vecchioの直系ではなく、ドラマでは実の父を殺したと疑いがかけられているCosimo il Vecchioの弟にあたるLorenzoの家系で父はCosimo I(コジモ1世)
全く、同じ名前付けるなよ、ややこしい、と思うのですが仕方がない。
Cosimo Iの長男Francescoが急死したことにより、家督が転がり込んで来たFerdinandoは1588年にはこの屋敷を置いてFirenzeに戻ってしまいます。
丁度Medici家の栄光が傾き始める時期なんですよね。

Ferdinandoが所有したころは2本の塔はなく、1本だけだったそうですが(丁度同時期に開催されている展示会でその頃のスケッチが残されていました)、
壁にはローマ時代の石棺などの表面を覆っていた彫刻を当世風にアレンジしたりしたものが装飾されています。
修復したてのようで、かなり状態は良いです。

例えばこれ。
群衆はローマ時代のものですが、虹は後世になって加えられたものなんだそうです。
この正面の壁で唯一完全オリジナルなのが

これ

左右2カ所に付けられた花飾り。
これだけが手が加わっていないオリジナルが現在も残っているものです。
またこの正面の説明を受けているだけでも、視界に気になるものが入ってきます。
例えばこれ

あれ?どっかで見たことあるけど…と思ったのも当然。
これBargelloにあるGiambolognaのMercurio volante(天翔けるマーキュリー)のコピー
そして

これも見たことあるよ。
本物はLoggia di lanziにある”メディチのライオン”です。
実はこれ

1869年作と年号が刻まれています。
実はマーキュリーもライオンも本物はFerdinandoはフィレンツェに全部持っていってしまったんです。
Ferdinando、いや彼だけではなくメディチ家の当主には古代彫刻のコレクターが非常に多かったんですけど、
特に彼はRoma滞在時に多くの彫刻を収集し、この屋敷に飾っていました。
それらのほぼ全てをローマからフィレンツェに持っていってしまったので、今フィレンツェでオリジナル作品を見にすることができるわけです。
ここに置きっぱなしだったら、今頃確実にルーブル美術館行きでしたね。(って以前も言った気がするけど)

無造作に(本当はそうでもないのかな?)置かれてた

こういう彫刻もコピーなのだろうなぁ…
Ferdinanndo当時はさびれた場所に有ったこの宮殿を手に入れたのはこの眺望の為。

手に届く位置にバチカンが見えます…ってこればバチカンじゃないな。

こちらですね。
かなり遠いように見えますが、実際そんなことは有りません。
歩いても15分、20分位かな?
枢機卿であったFerdinandoが教皇の座を狙っていなかった、とは考えられないですしね。

ここからは180度くらいRomaのパノラマが見渡せます。
この日はちょっとガスってましたけどね。
こちらからはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂が見渡せました。

正面の説明が終わると(以前も書いたと思いますが、ここはガイド付きツアーのみで拝観可能なんです。予約は必要ありません。)、これまた自慢のお庭の方へ移動です。
お庭の総面積は7ヘクタールを超えます。
数字に弱い私にはピンと来ないのですが、70000平方メートルということで、東京ドーム1個分の建築面積は、46,755平方メートルということなので、1.5倍弱になるようです。
現在も16世紀当時の面影が良く保存されています。 
1564年Ricci枢機卿がこのお屋敷を買い取った当時はブドウ畑だけのシンプルな庭だったみたいですが、
その後土地の改良を行い、庭を囲む壁を北側に作ったり、ミラノから数学者でエンジニアの Camillo Agrippaの灌漑施設により庭園内に噴水や泉が建設されました。
ちなみに壁一枚で隔たれたボルゲーゼ公園の方は80ヘクタールも有るそうで、ローマでは2番目の広さを誇るそうです。
ボルゲーゼ公園の方も元々はブドウ畑の有った場所で、1605年Scipione Borghese枢機卿がローマ最大の庭園を造ろうと考えたことに始まり、19世紀には自然な景観を生かしたイギリス式庭園に造り替えられたそうです。

現在もブドウ畑は健在で、ここにはメディチ家の多くの庭園で見られるように、柑橘系の植物は多く植えられていますが、花は植えられていないそうです。
広大なお庭の中には現在もフランスの奨学金でここで生活しているアーティストの為の家があります。

画家や彫刻家だけでなく、美術史家などもその後滞在するようになったことから、アーティストには天井の高い部屋が割り当てられたリ、
学者はその必要がないので、部屋もそれなりの場所が与えられていたとか。
優雅な暮らしをしていた(している)んですねぇ。

こちら、奥の一際大きく天井の高い家はアングルのアトリエだったそうです。
ここが日曜日には中に入ることができるそうなんですけど…
アングルはここに滞在中、アカデミーの校長もしていたりと権力は有ったので、先ほど見た建物の正面の改修や庭に多くの松の木を植えたりしたそうです。
ただアングルにより手が加えられたものは、19世紀になって、できるだけオリジナルの近づけたいというBalthusの意思で外され、現在みられるのは、Ferdinandoが所有していた時代により近づいた庭園です。

他にもBalthusの功績としては、この庭園内には、16世紀発掘されたNiobide(ニオベ)のグループ彫刻が置かれていました。
ただこれもFerdinandoがフィレンツェに持っていってしまったため、現在本物はウフィツィ美術館のニオベの間にあります。

こんな感じで展示されています。

彼女がニオベ。
ゼウス(Zeus)の血を引く男児7人女児7人を生み、多産であることを自慢したことが女神レートー(Latona)の怒りを買い、彼女の子供であるアポローン(Apollo)とアルテミス(Artemide)に子を全員殺されます。
嘆き悲しむニオベの涙はとまらず、ゼウスに願い自身を石に変えた(変えられたなど諸説あり)。
または、子殺しを後悔したレートーがニオベを哀れみ石に変えたともいわれる。
しかし石になっても泣き止む事はなかったという。
どちらにせよ「口は災いの元」、「後悔先に立たず」、なお話ですね。

そのニオベともがき苦しむ子供たちの彫刻群をBalthusが再現

オリジナルには馬は居ませんが… 
そしてオリジナルにはなく、Balthusの機転が垣間見られるのは屋外ということを生かし、水が出るようになっているんです。

写真じゃわからないか。
ニオベの流した涙が、殺された、今まさに死を迎えるべく苦しんでいるわが子の周りにあふれていました。
雨ざらしの為、ちょっと痛みが気になりますが…

この人がBalthusです。
同じグループにいたフランス人たちは彼の事を知っているようですが、私は全然知りませんでしたが、なんと日本とも深い関係がある人なんですね。
って、え?本当にこの彫刻Balthusかな?
だってBalthus(バルテュス)って1908年生まれで2001年没だよ???
誰だろこの人???
とにかくバルテュスはシュルレアリズムの巨匠で、
”1964年作家で当時は文化大臣だったアンドレ・マルローによって、ローマのヴィラ・メディチ(芸術のためのフランス大使館の役割をもっていた)の館長に就任、文化交流とともに館の再生にあたる。”
とWikipediaにも書いて有りました。

実はRomaに来る2年前に日本を訪れているんです。
パリでの日本美術展の選定のために訪れた東京で、当時20歳だった出田節子(いでたせつこ)と運命的な出会いをした。
当時、バルテュスは結婚していた上、フランス中部・シャシー村の城館で8年間も生活をともにしてモデルを務めた義理の姪フレデリック・ティゾン(Frédérique Tison)もいた。
節子とは1967年に結婚した。
節子夫人も画家であり、2人の間には1973年に誕生した娘春美(ハルミ・クロソフスカ=ド=ローラ、ジュエリーデザイナー)がいる。
バルテュスの生前、本人の意志により夫人は基本的に和服であった。(Wikipedia参照)
夫人は15年間に渡るローマの生活を支えられたそうです。
巨匠ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめたバルテュスですが、何とも女性関係は…
ちなみに奥様はまだご存命のようですね。

他にもここは芸術家の勉強する場所ということでこんなものもありました。

Gipsotecaという石膏塑型の展示室。
ここにも見たことがあるものが有りますよ。

ヴァチカン美術館に有るTorso di Belvedere(ベルベデーレのトルソ)の石膏コピー

この人もローマ彫刻のコピーですね。
ローマ時代の作品をコピー、模写するのがアーティストの勉強でしたからね。
その中でも1つコピーではないものが有ります。

入り口正面に見えるこの彫刻以外は全て石膏でできたコピー。
この正面の彫刻はいわくつきで、実はナポレオンだったのですが、ナポレオンが倒れてから別の人に作り替えられたといういわくつきの作品なんですって。
左手に皇帝の印である月桂樹の冠をもっているのがその証拠なんですと。

まさにこの絵。
いつの時代も政治に芸術は翻弄されておりました。

さて、実はここからが本来一番伝えたいところだったのですが、ここまででかなり長くなった上、この先もかなり続きそうなので1度この辺で区切りをつけることにします。
ただ明日から弾丸ウィーン&ブタペストに行くので、続きがいつアップできるか心配です。
今回はいつも以上に弾丸で、実質ウィーン1日、ブタペスト1日という感じで、今からかなりドキドキしています。
ウィーンは美術史美術館さえ見ることが出来ればそれで良く、後はおまけと言う感じですが…
ということでまたしばらく… 

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