イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Città del Tufo(凝灰岩の町)、Pitigliano(ピティリアーノ)その1

2017年02月09日 16時04分14秒 | イタリアの小さな街・大きな街(Fi以外)

一人行動が多い私ですが、昨日は久しぶりに友人と一緒にショートトリップ。
車を出してもらったので、普段は行き難い場所をチョイス。
イタリアに留学するなんて全く考えてなかった頃、それでも旅行するのに困らないくらいのイタリア語は覚えたいと通っていた個人レッスンのイタリア人の先生に、
私がイタリアに行くことを話したらアブルッツォ州出身だったその先生は
「ここが自分が一番好きな場所だから、絶対行って欲しい」と見せられた絵葉書が

この風景。
絵葉書は夕方の

こんな感じだったと記憶していますが。

イタリアの最も美しい村(I borghi più belli d'Italia)にも選ばれているPitigliano(ピティリアーノ)です。
ピティリアーノはトスカーナ州なのですが、フィレンツェからは非常に行きづらく、ラッツィオやウンブリアからの方が近いなぁ、というグロッセート県に属しています。
Città del Tufo、凝灰岩で出来た街です。
凝灰岩とは、火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石のことで、この辺には昔火山があったことを物語っています。
ここから近い所に有るヨーロッパで最大級のカルデラ湖、ボルセーナ湖は、37万年前に火山の噴火によって形成されました。
そして火山と言えば日本人が大好きな温泉!!
有りますよ~この辺りにはいっぱい。
でも残念ながら日本人が満足できるほどお湯は熱くはないです。
有名どころはSaturnia(サトゥルニア)ですかね?
ただ温泉通の日本人的にはここ、ちょっと衛生面で心配が…
自然の中に有る温泉ですからそのあたりは仕方がないですけどね。

この辺りには凝灰岩で出来たこのような断崖絶壁に立つ町が少なくありません。
壁には無数の穴が開いていますが、現在はその穴はカンティーナや作物貯蔵庫などとして利用されています。
今回はそんな街をご紹介!!
ってヴェネツィアはいつ終わるんでしょうねぇ…来週はまた出かけます。

この土地に人類が現れたのはeneolitico(銅石併用時代,紀元前3-2世紀)末期のこと。
街の歴史は2000年以上も前エトルリア時代に遡ります。
その後ローマ人が入植します。
伝説では最初にPitiglianoに来たローマ人はローマからの逃亡者で、PetilioとCilianoという名前が残されています。
彼らはCampidoglioに有ったGiove Statoreの彫像から金の王冠を奪い、凝灰岩の壁に隠れていたそうです。
またローマには紀元前385年、"Petilia"という種族がいたという記録があります。
これはPitigliano出身の種族のことかもしれません。

11世紀、Pieve di Pitiglianoが初めて記録に登場します。
1061年4月27日のによると教皇Niccolò II(ニコラウス2世)がSovanaのカテドラルの司教座聖堂参事会修道院会の総長にBolla(教皇の教書)を送っています。
13世紀にはSovanaを支配していたAldobrandeschi家の支配下になります。

Aldobrandeschi家は中世MaremmaやMonte Amiata地区を支配していました。
元はロンゴバルド族、Spoleto公爵 IldebrandoやMauringoの子孫で712年から744年イタリア王も勤めたLiutprandoやAnsprando、Ildebrandoも同じ先祖を持つという華々しい血筋。
彼らはToscana州に属するColle di Val d'Elsa, Santa Fiora, Arcidosso、Sovana (旧Soana), だけでなくLazio州のTuscaniaも支配下に治めていました。
後にテリトリーはSienaまで広がって行きます。
1333年シエナ軍を率いたGuidoriccio da Foglianoは6か月に渡って攻防します。
その様子が描かれたのが今もSienaのPalazzo Pubblicoに描かれているこれ

Simone Martiniが描いたGuidoriccio da Fogliano。
1328年にMaremmaのCastello di Montemassi (モンテマッシ城)攻撃の為馬で向かう様子が描かれています。

またAldobrandeschi家のGuglielmoとOmbertoはダンテの「神曲」の”Purgatorio(煉獄編)”(versi 46-72 del Canto XI)で、グレゴリウス改革といわれる一連の教会改革で成果をあげ、教皇権の向上に寄与し、後に聖人にも列せられるGregorio VII (グレゴリウス7世。Ildebrando di Sovana生まれ) Aldobrandeschiの出身であることに言及しています。

1274年南ToscanaのAldobrandeschi家の テリトリーは同家の血統によってSovana伯爵領とSanta Fiora伯爵領に分けられます。
Savona家の方は1293年Margherita Aldobrandeschi伯爵夫人の娘で、Sovana家を継ぐ最後の血縁者AnastasiaがRomaの公爵Orsini家のBertoldo I、Orsini家出身の教皇Niccolò IV (ニコラウス4世の孫)と結婚し、持参金(金ではないので”持参土地”?)としてPitiglianoはOrsini家のものになります。
そしてそれまでは独立を守っていたSovanaもOrsiniの支配下には入ることになりました。
度重なる隣国との戦争でテリトリーが少なくなっていたOrsini家は、本拠地をPitiglianoに移します。
こうしてPitigliano公爵領が生まれ、今までは司教座が置かれるほど重要だったSovanaから人もPitiglianoに流れ、最終的には司教座も移されてしまい、Sovanaは衰退の一途をたどってしまいました。
またSanta Fiora家の方は後にSforza家に継承されました。 

その後家族間の争いやシエナとの戦いで疲弊していたPitiglianoもNiccolò III Orsini (1442 – 1510)の時代に新たな発展をみせますが、その後メディチ家との戦いに敗れ、1604年にはToscana大公により大公領に併合されますが、メディチ家はこの街に全く興味がなかったため、街は次第に衰退して行きました。
1737年、GranducatoがLorena家に移ると、Pitiglianoも少しだけ経済的にも文化的にも復活しました。
 
街の入り口。

Orsini家の紋章…だと思うけどよくわからないね?

イタリアの最も美しい村(I borghi più belli d'Italia)の印。
この門を入って行くと左前方にツーリストインフォメーションがあります。
珍しくこんな閑散期の平日、こんな街(失礼!)なのにちゃんと開いていました。
ここでこの街とこの周辺の情報を教えてもらいました。

左の道を上がって行くと

大きなアーチと噴水

水がきれい、と友達は感動していましたが、私は彫刻の顔が面白いことの方に気持ちが行っていました。
この広場に

Palazzo Orsiniが有ります。

ちょっと怖いライオンがお出迎え。
残念ながらこの宮殿には入りませんでしたが、説明だけは加えておきますね、調べたから。

1500年代Orsini家はAntonio da Sangallo il Giovane (アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ)に1300年代に拡張されている要塞の改築を依頼します。
この人はラファエロの死後、バチカン大聖堂の改築を任されたりしていた(最終的にはミケランジェロが手掛けることになるのですが)この時代非常に重要な建築家の一人でした。 
Sangalloは街の防御を最大の目的とした修正を加え、多角形の砦を造り、Capisotto門の強度を増やしました。
1800年代に再び改築されているものの、複雑な要塞構造が今でも見られます。

このあとこの町の見どころユダヤ人地区ゲットーへ向かいます。
次回に続く 



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