イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

西と東のローマ

2016年05月22日 19時18分54秒 | 

天気もいいし、イベントも有るし、今日は外に出ようと朝は考えていたのに、
ちょっと片付けなくてはいけない事に時間がかかって、あっという間に出る気がなくなり、また引きこもっていました。 

昨日また1冊読みました。

コンスタンティノープルの陥落。
コンスタンティノープル、東ローマ帝国に関してはこちらでもあまり触れないので、いまいちピンと来なかったのですが、これを読んで益々トルコに行きたくなりました。
残念ながら、さすがに今の治安では、トルコを訪れることはできないですね。

一番納得したのはこの部分

ギリシア正教会の修道士で、東西のキリスト教の合同に反対していたゲオルギオスに弟子であるイタリア人ウベルティーノが「なぜギリシア人は東西合同にこれほど反対なのか」と聞くと
「ビザンチン文明とは、滅んだ古代ギリシア文明とローマ文明から吸収したすべての要素と、オリエントから受けた影響との総和を、さらに上回るなにものかなのだ。それはそれ自身でひとつの完全体なのであって、単にさまざまな文明の要素の、色とりどりな混合からできた合成体ではない。東ローマ帝国とは、ある意味で誤った名称なのだ。なぜなら、1230年にコンスタンティヌス大帝がローマ世界の首都を、ローマからビザンチウムに移した時、彼がそこに創建したものは、さまざまな難問と取りくむやり方と、それが引き起こす反響において、また、建築や法律や文学において、まったく独自なひとつの精神的な帝国だったからである。
 古代ギリシアの影響を受け、古代ローマ世界を母胎とする西欧の人々が、ビザンチン帝国とそこに住む人々を、不可解と思い、無意識にしても嫌うのも、理由がないわけではない。われわれビザンチンのギリシア人は、純粋には西欧人ではないからね。
 ビザンチン帝国の宿命的な創建から今日までの千百年の間、ギリシアは、アジアとヨーロッパとアフリカにまたがった巨大は蛸(たこ)の一部分だった。そして、西ローマ帝国の滅亡後、西欧が暗黒の時代を通過しつつあった頃、コンスタンティノープルはその異国風の花を咲きほこらせ、彼らの思考方式に合った、新しい文明を築きあげていたのだ。地中海世界の長子としてのその気質は、実際的なことよりも、宗教と芸術の精神にとくにいちじるしく発揮された。そして、その政治上の特色も、けっして分離することのない、また事実上分離しえない、教会と国家、宗教と政治との統一態を守る信念にあったのだ。これがギリシア正教会の基本的は制度と指導理念に結実する。
 一方、西欧は、しばらく前から、それはおそらく長い混迷の時期をすごしたからだろうが、教会と国家を、分離可能なかぎりに分離する考えに達したようである。イタリアの各都市国家の繁栄は、その果実だ。だが、ビザンチンの人間にとっては、西欧では実現したかもしれないが、またそれによって、さまざまな利益がもたらされたかもしれないが、教会と国家の分離など、とうてい受けいれられることではない。ビザンチンの人々にすれば、宗教と政治の完全な一体化を当然の前提条件としない政治理念など、考えられもしないことなのだから」(本文から引用)

すごいですね。
東ローマ帝国の立ち位置が非常によくわかりました。
しかし、イタリアにしろ、トルコにしろ、いたポルトガルだってスペインだって同じですが、なんで現在はこんなになってしまったんでしょう??? 

昨日はこの本を一気に読み終えた他に久しぶりにイタリアの面白い番組を見ました。 
と言っても時々話しているUlisseil:piacere della scoperta という番組なのですが、昨日はRomaの特集だったんです。(日本からは観られないのかな?一応ここにリンク貼っておきますが)
何故か偶然にも昨日「ふしぎ発見」で取り上げられていたオベリスクの話も出ていたのでちょっとそのお話を。

Romaには以下の13本のオベリスクが有ります。
Obelisco Agonale - ナヴォーナ広場
Obelisco di Dogali - ディオクレティアヌス浴場
Obelisco Esquilino - サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
Obelisco Flaminio - ポポロ広場。高さ23.20m
Obelisco Lateranense - サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(サン・ジョバンニ広場)。高さ32.18m
Obelisco della Minerva - サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
Obelisco di Montecitorio - Piazza Montecitorio
Obelisco del Pantheon - パンテオン
Obelisco del Pincio - ピンチョの丘
Obelisco del Quirinale - クイリナーレのpiazza del Quirinale
Obelisco Sallustiano - スペイン広場
Obelisco Vaticano - サン・ピエトロ広場。高さ25.37m
Obelisco di Villa Celimontana(Obelisco Matteiano) - Villa Celimontana

フィレンツェにも1本、Obelisco di Boboli (ピッティ宮殿)がありまが、
実はこのオベリスクも元はローマに有ったものです。
16世紀に枢機卿のFerdinando de' Mediciが購入し、Villa Mediciに置かれていたものを、1788年Pietro Leopoldo大公がフィレンツェに運ぶことを決めます。
これ、まずローマからリボルノへ船で運ばれてそこからは陸路、6月にローマを出たのにフィレンツェには10月に到着したそうです。

元々ローマにはたぶん17本のオベリスクが有ったと考えられていて、
他のものはUrbino(San Domenico教会の前)に1本
もう1本は本来ティベリーナ島に有ったようだが、完全な状態では残っていないそうです。(破片はMuseo Nazionale di Napoliとミュンヘンに保存されています。)

それにしても世界に27本しかないオベリスクの半数以上がイタリアに有るってのはすごくないですか?
でもローマの13本、全てエジプトのものではないんです。
7本はエジプトから持ってきたもの、残りはローマ人がコピーしたそうです。
ローマ人ってどれだけコピーが上手だったんだ、と思ってしまいます。 

最初にオベリスクをエジプトからイタリアに運んできたのは、初代ローマ皇帝アウグストゥスで、後に続く皇帝たちもマネして持ってきます。
当時は今と違って宗教的、政治的な役割を持っていました。
エジプトから運ばれて来たオベリスクは、今の場所とは違って、この時代ローマにたくさんあったエジプトの寺院の前、お墓などの前、太陽神に捧げられたエリアに立てられていました。
それを動かしたのは皇帝の次の世代の権力者、Papi、つまり教皇です。

その大きな功績を担ったのは、Sisto V(シクトゥス5世)
この教皇は1586~1589年の間に建築家のDomenico Fontanaを使ってローマの都市改造を行います。
彼は7つの大聖堂を直線的に結ぶ大きな道を敷き、この大きなオベリスクをPiazza San Pietro, Esquilino,San Giovanni in Laterano,Piazza del Popoloなどに目印のために置かれました。

オベリスクの中の1本、San Pietro広場にあるそれについてちょっと面白い話が有ったので、それをご紹介しましょう。
ここには既に3200年以上も前のエジプトのオベリスクで、紀元37年、エジプトから運んできたものが有りました。
ただその後1500年くらい、誰の興味を引くこともなく、忘れられた存在になっていました。
それが1450年頃、時の教皇Nicolò V(ニコラス5世)が目を付けます。
時はまさにルネサンス突入(この教皇は最初のルネサンスの教皇とも言われています。)
ギリシャやエジプトなど古代回帰興味は加速的に強くなっている時期ですね。
教皇は廃れたローマの復興に力を入れます。
この頃のローマって今から想像できないほど荒れていて、家の修理にコロッセオの石を使ったりとやりたい放題でしたからね。
サン・ピエトロ大聖堂も今のような立派なものではなかっただけでなく、倒壊の危険があったため、人文主義者アルベルティの助言により修復を行いました。
芸術面ではフラ・アンジェリコをフィレンツェから招き、バチカン宮殿内を装飾させたり、バチカン図書館を創立したりしています。
そんな教皇は是非ともこのオベリスクを広場の真ん中に設置したいと考えたようです。
しかし、当時はたかだか250メートルの距離とは言え、高さ25メートル、重さ350トンの石の塊を動かすすべは有りませんでした。
いや、動かすことより難しかったのは…

それから150年の月日が流れ、Sisto V(シクトゥス5世)の時代になり、なんと建築家Domanico Fontanaがこのオベリスクを動かすことに成功するのです。
Fontana(私ではないですよ)の案は、オベリスクの周りに”城”と呼ばれる足場を組み、オベリスクにロープをかけて、巻き上げ装置を使ってオベリスクを持ち上げるというものでした。
作業はとてもデリケートで複雑なものでした。
1586年の4月から9月までの間44台の巻き上げ機、900人の人夫、140頭の馬を使って、少しずつ計画は進められていきました。
困難で危険な作業の為、Fontanaは広場を閉鎖して作業を行いたかったのに、見物人などが広場に集まってしまったため、広場でどんな騒音や、一言でも声を発したら死刑ということに決まっていた。
当時の年代記には広場に絞首台までできていたと書いています。

とここまでは史実のようですが、ここからは伝説が入り込んできています。
それは1586年9月10日の事です。
ようやく作業も最終段階に突入しましたが、これが一番難しい作業、台座の上にオベリスクを乗せることです。
52回も中断をして、ようやくオベリスクを立ち上げ、台座の上に乗せようとしていたところ、ロープがすり減って、切れかかっているのを人夫たちが気が付きます。
そしてそのままオベリスクは上がらなくなりました。
Fontanaは大慌て、でもなすすべも有りません。

すると群衆の中から「ロープに水をかけろ!」という叫び声が聞こえました。
その声はBrescaという船長のもので、彼は長年の経験からロープの扱いにたけていたので、ロープが水にぬれると強度を増すことをよく心得ていました。
彼のお陰でオベリスクは直立し、作業は無事終わりました。

ところがBrescaは決まりを破ったため、本来なら死刑にされるところでしたが、Sisto Vの御前に召し出され、死刑を免れました。
それどころか、サンレモの出身だったBrescaは自分や家族、子孫に特別な名誉としてDomenica delle Palme(枝の主日。キリスト教の移動祝日で、復活祭の一週間前の日曜日にあたる。)の儀式の時、ヴァチカンをヤシの枝でうめて欲しいと教皇にお願いしたところ、特権が与えられました。
サンレモは現在でも生花の栽培で有名で、街中にヤシの木が植えられています。

更に伝説ではこのサレルノ出身の船長の子孫が、今でも伝統的な”ねじったヤシの葉”(“Parmureli”という)の公認の調達業者となっているとか。
サレルノには、Bresca船長に捧げた広場が水夫たちが多く住む地区の中心の広場に有るそうです。


ということで今日も脱線してしまいました。



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2 コメント

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これ読んだら (たま吉)
2016-05-23 16:48:35
「ロードス島攻防記」と「レパントの海戦」を読むしかないですね~。あわせて「海の都の物語」も是非!
トルコに行きたいとずっと思ってますが、このご時世無理ですね。。。

fontanaさん、いつも豊富な情報ありがとうございます。膨大過ぎてもう覚えられませんが・・・(^^ゞ
是非! (fontana)
2016-05-23 16:54:54
たま吉さん
是非これらも読みたいと思います。今は短編が終わってしまったので、まず「ローマ人の物語」を読み始める前に須賀敦子さんをやっつけています。(笑)

いえいえ、私も書いたそばから忘れていますよ~(^▽^;)

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