富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

映画祭1968『パルチザン前史』

2012-02-06 21:40:11 | ☆学生運動と60~70年代

監督:土本典昭  1969年、モノクロ、120分、16mm
2012/2/2 オーディトリウム渋谷「映画祭1968」にて
 
『日大闘争』の感想にコメントをくれたJUNさん、ロビーに(元、と思っていた)日大全共闘らしき方々が集っていたので、声をかけてみようかと思っていたところ、正面から「ふみさんという女性が…」と話し声が! 「ブログでなかなか…」というところで名乗り出てしまった。「なかなか」のあとを聞いてからにすればよかったと悔やむ。帰り際、名刺交換。
仕事が休みだったので、18時より上映のこの作品を観ることができた。富島研究の荒川さんとともに行く。上映後に一気に質問をぶつけると(「そもそも、パルチザンって何?」というところから)、全部答えてくれた。荒川さんがいなかったら、火炎瓶を作るところと予備校のシーンがおもしろかったくらいで終わっていただろう。

さて、当初「パルメザンチーズ」なんて冗談を飛ばしていたわたしだが、上映が始まってまもなく疑問符が生じる。なぜだろう、『日大闘争』の時のような感情移入ができない。
『日大闘争』では、“使途不明金”と学校側の不誠実さという、学生の怒りの対象が明確だった(『圧殺の森』もそうだが)。だから納得し、共感できたのに対し、この映画でのそれは京大を一つのシンボルとした“帝国主義”のようだ。スケールが大きいだけでなく、漠然としてつかみどころがない。
 
レンズは京大の経済学部助手 滝田修の姿を追う。仲間ら(助手仲間か)と狭い部屋で、紫煙をくゆらせながら行われる議論は、学生のそれと違って知的で学問のかおりがする。
それに対比するように、ドラム缶にゲバ棒で突進したり、夜中にランニングしたりと、軍事訓練を思わせるシーンや、機動隊に火炎瓶で応戦する過激なシーンが映し出される。火炎瓶を作る様子を、字幕を添え淡々と映す演出は、ジョークにもアイロニーにも見える。タイトスカート姿の女の子がゆっくり座り込み、筆にペンキを浸し、壁に「斗うぞ」と書くシーンも。
 
全編にわたり滝田の発言がクローズアップされるが、まず「全共闘の解体と再編」という言葉がわからなかった。これは映画冒頭のシーン、集会場での「8派(ハッパ)ばかりやないか。ノンセクはどこに行けばいいんや」という学生同士のやり取りに表れていたらしい。ただ聞き流していたが、本来学生のものであった“学生運動”は、違った方向に動いてきたことを示唆していたようだ。
 
「大衆の怨念を各自が掘り起こす」と語る滝田は、「パルチザン五人組共産主義労働団」を提唱する。パルチザンとは遊撃隊、ゲリラのことで、ただ強いだけでなく、全人的に魅力のある人間を育成し、小さなグループを全国にばらまいて世の中を変革していこうとするものだったらしい。
 
「石や棒では世直しはできない」「暴力に対するあこがれではなく(暴力が主体になるのではなく)、我々が主体にならなければならない」「暴力は悪ではない」…特に最後の言葉は理解しがたいものだが、一方でそんな発言と結びつかないような姿を滝田は見せる。
 
ローザ・ルクセンブルグの研究家でもあった滝田は、自然や人間への愛情を説き、アルバイト先の予備校では、学校を解体しろと言いながら、君たちには学校に入れと言う矛盾を認める。「月収が10万、家賃が6万、幼稚園に1万5千円」と自身の生活をあけっぴろげにし、運動については「道楽やからやめられないし君たちに強制できない。(やるかやらないかは)縁というもんや」というようなことを言っていた(ような気がする)。こんなところには革命家ではなく、人間くさい一面が感じられる。
 
関西弁で気さくな感じに魅力はあるけど、いやいや、教室から学生を追い出して椅子を壊したり、火炎瓶投げたりするのはやっぱり迷惑だと思うのだ(行為を寛容できないということ)。
 
トークショーはカメラマンの大津幸四郎さん。「日本のゲバラ」を探して滝田に興味を持ったという大津さんは、ナレーションで誘導することなく、カメラの前に広がる世界を客観的にフィルムに収めるとともに、滝田の内面に迫る作業をしていったという。
質疑応答では、学園の内部の中で、頭の中で作り上げられた理想を「マンガチック」と称し、これでは世の中は変わらない、もっと違うところにカメラを向けなければならないと考えて「水俣病」にカメラを移していった、と語っていた。
 
完璧な理論は数式のような美しさを持つ。しかし、現実のゆらぎや矛盾の中にそれを持ち込んでは、それは狂気をもたらすだろう。
『日大闘争』は若い学生の汗のにおいがしたのに対し、『パルチザン前史』には冷たい血のにおいがただようという感じか。
 
自分で働いて飯を食い、自分の金で武器を買い、地域の人々から信頼されて人間の絆、戦士の絆を深めていくべきだという言葉とともに、映画は、滝田が仲間と船で瀬戸内海にわたり、琵琶湖の食堂で食事を掻き込むところでのどかな感じに終わる。エンドロールでは延々と「一、二」の掛け声。

 
ネットで見ると、1969年から3年後の1972年、滝田は朝霞自衛官殺害事件の首謀者と容疑をかけられ指名手配され、長い逃亡生活に入ったらしい。今は「滝田修」というペンネームを捨て、政治活動も絶ったようだが、かつての著書からその変遷を見てみたいと思った。

※セリフ等については暗がりでとったぐちゃぐちゃのメモを頼りに書いていますので、相違があるかもしれません。ご容赦ねがいます。

※2012年2月16日追記
「トークショーは監督の土本典昭さん」は「カメラマンの大津幸四郎さんの誤りでした。申し訳ございませんでした!



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2 コメント

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Unknown (花戦車主人)
2012-02-11 23:27:08
ふみさん、ぼくは『パルチザン前史』を見ながら、何回か、暗がりでふっと笑いました。ふみさんから、どこの場面が可笑しかったのかと後で聞かれましたが、もう忘れていました(笑)ほんとです。でもどういうことに笑いを誘われたのかというと、滝田修の〝相手は一貫して勝ち続け、われわれは一貫して負け続ける〟といった、言語のレトリックにたいしてです。アジテーターとして、滝田修は魅力的でしたね。ぼくは当時「負けるのは当たり前なのだ、問題は負けたときの負け方なのだ」といった文章を書いたりしていましたが、映画を見て、ああ、あれは滝田修の受け売りか、と思いだしていました。滝田修の魅力は、〝パルチザン五人組〟のようなヨタ話もそうですが、八派の政治党派のばらまく政治用語にたいして、フツーの言葉で、いかにも実現可能に思えるようなカクメイ幻想を語ったことでしょうか。滝田名義の著作などは、戦後文学史に記載しておきたいような魅力的なものです。
竹やり訓練やいっちに、いっちに、は悲しい光景でしたね。ふみさんは呆れていましたが、アメリカの圧倒的物量にニッポン精神で勝とうとした戦時中の再現のようで、悪いジョーダンのようでした。
この映画の時期、政治党派は全共闘運動囲い込みをしつつ勢力拡大を狙い、ノンセクトラジカルはどんどん少数精鋭(五人組)になり、尖出していきました。その後は、ご承知のように悲しくてやりきれない結果を招きました。純粋で、私欲を持たず、尖出して散って行った人々を思うと、映画を見終わって会場を出るとき、苦いものがこみあげてきましたよ。やだ、やだ、という感じでした。
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花戦車主人さん (ふみ)
2012-02-12 22:43:47
また参考になるコメントありがとうございます。当日もハナセンさんのおかげで助かりました。
やっぱり“雰囲気”だけではだめなんだなあと映画祭以来思っています。“知識”だけでもだめ。雨宮処凛のいう“当事者性”が大切だと実感しています。
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