mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

現代社会のオフ・リミット

2016-09-21 15:14:20 | 日記
 
 橘玲『言ってはいけない――残酷すぎる真実』(新潮新書、2016年)を読む。《遺伝、見た目、教育に関わる「不愉快な現実」》とセンセーショナルな腰巻を巻いている。だがこれは真面目な現代社会批判の書である。
 
 分子生物学や進化生物学、行動遺伝学、進化心理学などの研究書を解読して、現代社会の「ポリティカル・コレクト」と言われるタブーに挑戦している「啓蒙書」である。ただ啓蒙書と呼ぶのが似合わないくらい、私たちの生活経験の「智恵」に響く。つまり、私たちの「身」に覚えのある経験則が、学問的裏付けを得ていると思えるほど、腑に落ちる実感をともなっているのである。
 
 ふだん私たち庶民は、あちらこちらから入ってくる「情報」をネタを、自分の身の裡にすでに築かれている世界を見る文法構造に従って嵌め込んで、新たな、あるいは従来通りを延長した世界イメージを再構築する。ときによってはそれがうまく嵌め込めず、文法構造自体を組み立て直す必要に直面する。大きく修正しなければならなくなる。そういう局面に立ち至ったとき、私たちは目から鱗が落ちるように感じる。逆に言うと私たちの身は、たくさんの鱗に覆われていると言える。
 
 その、もともと身についている鱗は、それまでの経験則と「学習」によって(たいていは無意識に)身の裡にかたちづくられたものである。その長年の蓄積が、(自ずと、つまり無意識に沈潜するように)自身の感性と世界を見る文法構造をかたちづくる。だからたいていは自分自身でも、なぜそう感じるか、そう思うか、そう判断するかを考えていない。だって、そういうものなんだろうと、自然(じねん/しぜん)に思っている。他人に問われてはじめて、はてなぜそうなんだろうと考えはじめる。
 
 この「じねん/しぜん」が「偏見」である。だから「偏見」は、ひとりの人の傾いた世界の見方というよりも、その人の生育歴中にかたちづくられた、公共的・社会的な世界の見方ということもできる。つまりすべての人に共通する言い方をすると、誰もが「偏見」をもっているのだ。その偏見の共有性が多数派であるときには、むろん「偏見」とみなされないばかりか、「常識」となる。その「常識」が昂じると、口にしてはならないタブーになる。それが時代によって、移ろう。その過程でアメリカで生まれたのが、「ポリティカル・コレクト」である。
 
 たとえば、「知能は人種によって差がある」と言ったら、人種差別と糾弾される。日本ではそういう表現自体は口の端に上らないが、「学校の成績は出身階層によって違いがある」と言えば、「偏見」として排除されるであろう。だが、学問的にそれを検証した刈谷剛彦という教育社会学者がいる。むろん、親の収入や生育歴中に触れる言葉や文化の「環境」によって生じる(学校教育以前に発生する差として)理解されているが、もしそれの過半が「遺伝」によるものだとされたら、たぶん日本でも、論議を呼ぶというよりも物議を醸すであろう。でもそれが「真実」だとしたら、いまの学力論議も、やりとりの内容が変わってくるであろう。学力テストの集約の方法も、結果の用い方も、「公表するかしないか」という論点とは別の次元で、考察されなくてはならなくなるであろう。あるいは、「勉強ができない」ことに悩む子どもたちの自責の念も、大きく変更されることになろう。さらにまた、(これは橘玲が示唆していることではあるが)能力の多寡によって暮らし方が選別されていく社会体制それ自体が、国家の在り様としては変更を迫られていくに違いない。
 
 橘玲は「作家」と称している。つまり、進化生物学や心理学の専門家ではない。だが間違いなく、専門研究者と私たち庶民との橋渡しをして、私たちの「世界認識」をもう一度吟味する機会を設けようとしている。その橋渡し役の仕事が、いまの時代に重要だと言いたい。彼はの科学の実験を引き合いに出して紹介した後、次のようにつづける。
 
 《もっとも効果的に相手をダマす方法は、自分のそのウソを信じることだ。カルト宗教の教祖が信者を惹きつけるのは、自らが真っ先に「洗脳」されているからだ。社会的な動物であるヒトは上手にウソをつくために知性を極端に発達させ、遂には高度な自己欺瞞の能力を身につけた。/これが「現代の進化論」の標準的な説明だが、もしこれが正しいとしたら、暴力や戦争をなくすために理性や啓蒙に頼ったところで何の意味もない。自己欺瞞は無意識のはたらきだから意識によって矯正することはできず、他人が攻撃すればするほどかたくなになっていく。……自己欺瞞が厄介なのは、知性が高い人ほどこの罠から逃れられなることだ。(無意識のうちに)つくりあげるから、ヒトラーやスターリン、レーニンや毛沢東など、現代史にとてつもない災厄をもたらしたのはみなきわめて「賢い」ひとたちだった。》
 
 この引用部分が言いたいことの第一は、自分を疑えということである。自らを疑うために、学べ。そこがはっきり見えるから、この作家は信用できると私は思っているのである。
 
「学びて思わざれば、すなわち罔(くら)し。思いて学ばざれば、すなわち殆(あやう)し」 

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