mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第24回Seminar報告 (2)住めば都

2017-01-30 19:00:33 | 日記
 
 「武蔵野台地の突端」と江戸が開かれた地勢を昨日引用したが、思えば、講師のM.ハマダさんが営んでいる小売店は新橋。江戸のころの、まさに武蔵野台地の突端、その先は江戸湾であった。今はその先が東京湾に13km延びて、「暁ふ頭公園」になっている。目下埋め立てている「ごみ処理場」までは、さらに5km延びる。2020年のオリンピックのボート会場建設で話題になった「海の森公園」のあるのがここの鳥羽口になる。この埋め立てが「日本の近代」なのだが、私の印象では、江戸初期からの埋め立てと明治以降の埋め立てとは全く異なる。「江戸はエコ、明治以降はエゴ」という近頃流行りの図柄に私も俗されているのであろうかと思うが、最近の中国のPM2.5の惨状をみるにつけ中国の30~40年先を歩いて来た日本の姿が思い出されて胸が痛む。
 
 「享保年間(1716~1736)の江戸の人口が130万人~140万人」というのに、まず驚く。江戸期最初の人口調査が1721年とされているが、その総人口が約3100万人。ということは、4割超が集中していたことになる。講師のM.ハマダさんによると、幕府の旗本・家臣・家人が20~30万人、大名と家族・家臣が50万人、町人が50万人、その他僧侶や浪人が5万人といい、住まいも定められていたそうだ。人口比と土地家屋の所有関係を単純に較べるわけにはいかないが、町人人口が三割ほどということは、住まう場所は一割にも満たなかったとみてもよかろうか。時代物小説などで賑やかな江戸の町をついつい思い浮かべてしまうが、実はそれほどの場所を占めていなかったようだ。
 
《「下町と山の手」の「下町――て一の意味ではなく江戸城に対する城下町という意味」。つまり、職人・町民の町が下町で、「山の手――武家地が中心、江戸城の西・北側を守るため」》
 
 と説明する。江戸は軍事都市から政治都市へと成長し、「中央集権国家の完成?」へと変貌したとみている。武家は基本的に消費者である。ということは、江戸の町は基本的に消費中心。商業・職人の活動が盛んになるだけでなく、武家の兵站というか、彼らの食べ物はどこから調達していたのであろうか。明暦の大火(1657年)によって焼け野原になった江戸は、その再建のために、再び「天下普請」を行い、全国からのヒト・モノ・カネの交通は、ずいぶんと賑わいを見せていたに違いない。
 
 でも天下普請にせよ、大火再建にせよ、人夫はどうしたの?
 そりゃあ、たとえば木材や石材の切り出しは切り出し地で賄ったでしょうが、江戸は江戸で現地調達したんじゃないの?
 そうか、それで仕事を求めて江戸に人が集まったってわけか。
 今と同じじゃない?
 幡随院長兵衛って、口入屋がいたよね。
 やくざじゃない? それって。
(ええっとね……とスマホをいじりながら幡随院長兵衛の「紹介」を読み上げる人がいる)
 ということは、日常生活に必要な食糧ばかりでなく、日用品も贅沢品も、お上への献上品も含めて、ものすごい物流のネットワークができあがったってわけね。
 貨幣経済も市場も、「江戸」と牧歌的にイメージしているのと違って、ずいぶん盛んだったと考えて良さそうですね。
 
 享保年間は、すでに江戸が始まってから100年以上の年月を経ている。人口の4割が集積しているという様相からすると、天下普請が功を奏し、参勤交代や江戸勤番が人を集め、壮大な消費地・江戸がつくりあげられてきていたと思われる。江戸の町に水路を張り巡らし、塩辛い井戸水ではなく上水路を整備して飲み水を確保したうえに、物流の中心的な担い手としての舟運を利用していたと、講師は話をつづける。その壮大な展開は、すでに近代の市場経済に近い踏み込みをしていたと推定しても、不思議ではない。そんなことを考えながら、明治以降の江戸・東京の変貌ぶりを思い描いていたのでありました。
 
 幕末の「江戸城開城」が大きな意味を持つと講師はいう。江戸が(維新時の)戦火にまみれなかったのはひとえに「西郷隆盛と勝海舟の会談」のおかげと。なるほどそういうことがあって、江戸を東京として、都に据えたかと思えた。ところが講師によると、じつは、「東京遷都」とは言わないらしい。1968年7月17日の詔書でも「江戸を東京と改称」することは記して「東京奠都」と呼んでいるが、「東京遷都」とはいわないという。いや、呼び方だけではなく、天皇自身が、その初期にはさっさと京都に帰ったりして、腰が定まらなかった事実があるようだ。面白い。それがあるから、京都ではいまだに「天皇はんを、はようお返しなはれ」というらしい。
 
 「都」ということについて言えば、江戸は江戸時代を通じて事実上の政治の中心であった。それを「みやこ」というのか、それとも「てんのうはん」のいたところを「都」というのか、考えてみたこともなかったが、今やその天皇さんも「象徴」になってしまったから、ますます「みやこ」から遠ざかるようになってしまった。行政的な地位だけでなく、「大阪都」などができると、日本には「みやこ」がたくさんできる。ま、それもいいか。「住めば都」というからね。
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