mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

まず隗より始めよう

2017-06-16 11:07:07 | 日記
 
 文科省の再調査結果の発表を聞いて、笑ってしまった。まるで漫画である。何ヶ月もかけて国会でやりとりしてきたことが、全部白紙に戻る。嘘と誤魔化しとお惚けばかりで、国会審議という場を空費してきたことを考えると、内閣総辞職でもまだ足りないくらい。それくらい馬鹿にした話だ。誰を馬鹿にしたかって? う~ん、主権者・国民、民主政治のシステム、立法府や行政府などの統治機関全体をコケにしている。コケというのは虚仮だ。安倍政府は自らをコケにした。
 
 5月20日のこのブログで「民意と民度と代議員」という記事を書いた。宮台真司が「民度が低い」と切歯扼腕し、北野武も「選挙権を与える前に試験をした方がいいのではないか」とお道化ていたが、それは考え違いだ。「試験」が必要なのは「代議士、代議員」の方だという趣旨であった。だが、それも不十分だ。これからは、政府の要職に就く人たちに試験をやって、適格性を審査しなければならないと、思う。いまの政府の要職に就く人たちは、「首相」とか「官房長官」という、「官邸の最高レベルの意思」の操り人形だ。彼らが楽屋裏で設えたシナリオ通りに演じている芝居も、おおよそ他人様に見せる類の代物ではない。それが大真面目に日々の新聞のトップニュースを飾り、国際機関とやりとりをして「日本の代表」面をしているのは、いやはやお恥ずかしい。「民度」が問われるってわけだ。
 
 そう言えば、それもあってか、近頃の言説をみていると日本のことを「この国は……」と論じる評論家たちが多くなった。はじめは、日本を国際的な立場から客観的に見てみようという気持ちが込められているのかと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。十把ひとからげに低い「民度」に括られては敵わないという気分が、「この国の……」とわが身を棚上げさせているのだと思うようになった。つまり、いまここで起こっているこの事態にじぶんはイノセントだと、立場を鮮明にしておきたいのだろうね。私なんぞは、まもなく後期高齢者になるから、いまさらしゃしゃり出てお節介をする立場をもたない。せいぜい、世の中のご迷惑にならないように身を潜め、できうればひっそりと静かに消えていきたいと思っているから、罪深かろうと罪が軽かろうと、いまさら言い訳もしないし、否定もしない。安倍のような人物を首相にしてしまった「戦後過程」を全部背負い込んで棺にまでもっていってもいい(というほど、政治過程にかかわったことは毛ほどもない。せいぜい、欠かさず投票行動をしてきたくらいの罪深さだが)。でもこんな政治を目の当たりにすると、「あの国では……」と言いたくなってくるかもしれないね。
 
 だが、「試験をする」って何をチェックするのか。民主制度における「国家権力」のチェック機能を何よりも尊重し、国家権力の各機関が「暴走」しないように厳しく自己審査をし、つねに国民の前に明らかにする資質を持っているかどうか。ドイツの政治家たちの、ナチズムへの「反省」を具体的に積み重ねる過程に、そういう資質を垣間見ることができると、何かの本を読んだときに感じた。ドイツでは、軍務についた兵士は、上官よりも(みずからの)良心に従うことを第一優先にする規定があるという。せめて、そういうことに学ぶセンスを、日本の政治家たちももってほしいね。つまり、先の戦争に対する厳しい反省がなされてきたか、なされないままいまに至ったのかが大きな違いになっている。日本の政治家たちには、その「反省」がない。ただただ(なぜか)昔懐かし強い国家の匂いばかりに、心惹かれているようだ。私たち庶民が求めているのは、強い国家ではない。安心して暮らせる国なのだ。
 
 でもなあ、そういう資質をもっていては「政治」を取り仕切ることはできないかもしれない、と根回しと縁故と裏技を象徴する二枚舌ばかりに気をとられてきた日本の有権者は思うかもしれないね。でも起点は、間違いなくここにある。
 
 考えてみると、「国民主権」ということばに、私たち国民は騙されてきた。しっかりとホッブズが言うように、国家の「主権者」は総理大臣である。私たちは主権を預けてしまった。主権は暴走する。「怪物」だとホッブズも指摘する。だがそれでは、せっかくつくりあげた「国民主権」が損なわれかねない。そこをチェックし、暴走を止め、場合によっては紆余曲折して時間がかかるかもしれないが、行政権力が独り歩きしないようにしたシステムが「三権分立」であった。さらに、ジョン・ロックが主唱した「抵抗権」であった。だがそれもこれも、欧米からの輸入品。私たち日本の国民は自前で体験してきたわけではない。だが、大東亜戦争というとんでもない代価を支払って、(国家権力は暴走することを)身に刻んできた。その後をアメリカ任せできたことが、いまの首相たちの(公にはできない)日米協議のアメリカからの要請通りにコトを運ぶスタンスを生んだのであろう。そのうえ、森友や加計学園をふくめ、内政におけるお友達政治の跋扈を引き起こしている。
 
 そういう地点で考えると、私たち自身の文化的な大革命が必要になろう。お上に頼らない。お上はできるだけ質素にしておく方がよい。私たち自身が、民衆のネットワークを駆使して、じぶんたちのことはじぶんたちで取り仕切る。そういう独立不羈の精神を(かつての百姓がおどおどしながら、かつての商人たちが堂々と、しかし分を心得て仕切っていたように)培う生き方をはじめてみようではないか。
 
 年寄りである私たちに今できることは、交換経済の大波のなかで、少しでも自律する、独立する志をもって社会の再構成をするように、次の世代に語り継ぐ、余生をそのように生きて見せることだと思う。グローバリズムかローカリズムかという二項対立の論議などよりも、お上に頼らない暮らしへ踏み出そう。自然に帰れとは言わないが、孫や子が少しでもそこに近づいた暮らしをできるように、まず隗より始めよう。
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