mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「洗脳」は自律的に行われる

2017-06-17 09:19:56 | 日記
 
 広瀬友紀『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』(岩波書店、2017年)を読んでいて、三つのことを思い出した。もう40年ちかく前になるか。私の子どものことばづかいのこと。
 
(1)「エレベスト」という。「エベレストだよ」と訂正するが、なかなか治らなかった。
(2)「あ」に濁点をつけた文字「あ”」と書いている。「これ、なんてよむの?」と聞くと、「あ」の発声のかたちで喉の奥から「あ”~っ」と濁った声を出した。
(3)「かべさんがね……」と話す。「かべさんて、だれ?」と尋ねて、私の友人のことだと分かる。「どうして? おかべさんだよ」というと子どもは、「だって、お箸とかお茶碗っていうでしょ」と応えて、面白いことをいうと思った。
 
 広瀬友紀は、ことばを身につけていく子どもの「間違い」の様相を丁寧に拾って、それがじつは、子どもなりに「ことば」の法則性を考えて導き出したものだと説く。

(1)に似たケース。「とうもろこし」を「ともころし」という。母親の名前が「ともこ」だと明かす。言われて思い出す。その頃私はマンションの13階に暮らしていた。「エレベータ」は毎日使っていたのだ。
(2)に関して。濁点(広瀬はテンテンと名づける)のついた「が」「だ」「ざ」はすぐに発声できるが、「ば」がうまく声にならない。それは発生の口のかたちが「ば」だけは「は」と異なるからだという。そうして「ば」から「”」をとって発声させると「ぱ」になる、と。もともと「は・ひ・ふ・へ・ほ」が「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」であったことが、子どもの発声の「自然」から浮き彫りになる、と。「”」も法則性に対する「過剰適応」だと。
(3)も、接頭辞「お」の法則性をじぶんなりに見出して「過剰適応」させたケースと言える。
 子どもにことばを大人が教えているというよりも、大人の見様見真似をしながら、なお、子どもは自ら、使われることばの一般性(法則性)を見出して、自分なりに使っている。だから広瀬は「小さい言語学者」だという。その使い方をを間違っているよと教えたからといって、それに耳を傾けて直すわけでもない。でもいつしか、直っているというのが、私たちの言語獲得の過程でみられると、この言語学者は説く。私たちがどのように文化を受け継いでいるかを考えさせて、面白い。
 
 これまで私は、言葉に限らず、所作や儀礼、場のとらえ方や振る舞い方など、伝承される文化の一つひとつが、子どもの成長期を取り巻く人々の「洗脳」によって受け継がれていくといってきた。いうまでもなく、伝えている大人の方も、それを「洗脳」しているとは思ってもいない。「洗脳」ということばを(意図して)強制的に押し付けることと理解している私たちは、まさかそんなことはあるまいと思っている。だがそうではない。私たちの文化の伝承の原型は、好むと好まぬとを問わず、生まれ落ちた「環境」によって、継承されているのだ。子どもがおのずから身につけて大人になっていくと考え、子どもの成長を言祝いできた。だがじつは、遺伝子になって伝えられるものも含めて、「ヒト」として生まれ落ちたときから、すでに自律的に(ことばに関して言えば、たとえば)法則性を探り当て、自分なりに使いこなそうとする「性癖」をもっているのだ。子どもの内発性という側面からみれば、「洗脳」は、大人を真似る → 子ども同士で真似し合う → その「かんけい」のなかで「法則性を探り見つける」という「性癖」によって自律的に行われると言える。
 
 子どもの成長が「ことばにしていないことがどうして伝わるのか」という地点にまで言い及んでいる。「グライスの会話の公理」と呼ばれているらしい。《語用論の入門書で必ず言及されるポール・グライスという哲学者・言語学者は、文字通りの意味でない表現がうまく伝わるためのよりどころとして、人間はある一定の相互了解のもとに、コミュニケーションを行っている》として、次のように要約している。少し長いが、アップ・ツー・デートな意味合いも持つから引用する。
 
《原則として、人間が相手に対して何か言うとき、話し手と聴き手が共有している目的(情報の共有や交換)を達成しようと会話するものである。なので、求められているだけの情報量に意図的に過不足をもたらすことなく(量の公理)、意図的に間違ったことは言わず(質の公理)、話題との関連性からいたずらに逸脱することもなく(関係の公理)、意図的にわかりにくい表現をあえて用いることもない(様態の公理)とお互いに期待してよい。》
 
 この、言葉の使い方に関する「グライスの公理」が6、7歳ころの子どもたちが徐々に習得していくもののようだ。どうしてこれbが、アップ・ツー・デートかは、言わずともお分かりになろう。ほぼ形幕となった今国会の、森友問題や加計学園問題、共謀罪やなどはじめとする審議の様子は、「グライスの公理」さえも習得できていない政府首脳と国会議員と、それを黙々と良しとする多数の議員たちの「ことばのやりとりの府」をみて、うんざりしているだ。マッカーサーが「日本人の精神年齢は12歳」といったのは、それでもまだ甘いといったところか。
 
 こう言うと、今の政府を支持する人たちは、「見方が自虐的」というかもしれない。だが、そうではない。おおよそ(与野党が)「共有する場」を日本の国会はもっていない。政府の権力当局者が自家中毒のようにわが身に閉じこもり、仲間内で良しとすることを勝手に切り回しているだけ。メディアは「野党もだらしない」と両成敗的に非難しているが、そうではあるまい。野党というのは、いつでも、それほどに非力なものだ。逆に言うと、権力を握ったものはまさに「主権者」になる。だから腐敗する。だからチェック機関が必要であり、それが機能するだけの「文化性」を備えていなければ、民主主義というシステムは、有効に機能しないのだ。そういう意味で、国会という機関は、いますでに本当に日本の政治にとって空洞化しているといえる。ではこれまでに「空洞化ではない実質があったことがあるのか」と問われるかもしれない。そうなんだよね。言葉のやりとりをしっかりとしきれない「文化性」があるのだね、日本には。これは伝統的な用語法かもしれないが、タテマエとホンネという対比だけでも身近に感じられるし、嘘も方便という俚諺でも一般化している。
 
 「年年歳歳花あい似たり、歳歳年年人同じからず」。こうして築いてきた「文化」をどこかで編みなおさなければならない。同じからざる人として私も、ちいさい言語学者同様に、「冒険」に乗り出さなければならないのかもしれない。後期高齢者だぞなんて、わが身を脇に置いておけないような気がしてきた。
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