五色の風

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
(C)ナナマガラー All Rights Reserved.

開拓第一歩の地

2017-01-04 19:46:43 | 札幌
1990年(平成2年)8月7日、札幌の前田森林公園で開催された「第10回高校生クイズ北海道予選」のYES・NOクイズ第2問目で、こんな問題が出題された。


「北海道の開拓第一歩が始まった年、ここ札幌の人口は、わずか10人にも満たなかった。」


「またまた~」って言われるかもしれないけど、本気で全国大会進出を考え、過去問で傾向分析をしていた私は、「これはYESじゃないと問題として面白くないだろう」と思い、迷わずYESへ向かおうとしたのだが、チームメイトの一人が「何かで読んだことがある。確か15人だったはずだ」と主張し始めた。
私は、「いやあそれはないだろ、これは絶対YESだろ」と言ったのだが、チームメイトが自信満々で「15人」だと言い張るので、「15人か・・・だとすればNOだよな・・・」と思い、結局NOへ走ってしまった。

果たして正解は、そう、YES。
福留さんの解説によると、開拓第一歩が始まった当時、札幌の人口は、わずか7人しかいなかったそうなのです。
これであえなく敗退してしまった私達。その後、このチームメイトがどうなったかは、ご想像にお任せします。
というのは冗談だけど、今はすっかり音信不通になっちゃったので、どうしてるのかは不明。こうなったまでは知ってるんだけど、久しぶりに会ってみたいなあ・・・。


さて、それから二十五年が経った昨年、このエピソードが、「ブラタモリ」で語られることとなりました。





札幌と室蘭を結ぶ一般国道36号。
豊平川にかかる「豊平橋」という橋で、手前は中央区、向こうは豊平区という、区の境となっている場所。

こちらの地図をご覧ください。
左下の方を拡大すると、豊平川を挟んで「モ八(もはち)」「鉄一」と書かれた住宅が描かれています。
この「モ八」「鉄一」というのが、北海道開拓が始まった当時(1869年)ここに住んでいた和人の一家で、両家の人数は合計で7人とのことでした。





橋の手前に、小さな公園があります。





すっぽりと雪に埋もれてしまっていますが、これが、「モ八」こと「吉田茂八」の碑。
吉田茂八は南部地方の出身(現在の松前町との説もあり)で、1857年(安政4年)に、箱館奉行によって、現在の小樽市銭函と苫小牧市勇払とを結ぶ札幌越新道(千歳新道)が開通して豊平川に渡船場ができた際、幕府の命により、豊平川左岸の渡守に任ぜられ、この地へとやってきたとされています。
このことから、茂八は、札幌に定住した最初の和人と言われ、1870年(明治3年)には、現在札幌市中心部を南北に貫く「創成川」の上流部に当たる南3条から南6条の間の掘削工事を請け負い、その区間は「吉田掘」と呼ばれるようになりました。

一昨年(「昨年」って書きそうになった・・・)11月に放送された「ブラタモリ」札幌編では、タモリさんと桑子アナがこの碑の前に立ち、ここから始まった開拓の歴史に思いを馳せていました。


「吉田茂八碑」の場所はこちら








豊平川の様子。
先程、「左岸の渡守」と書きましたが、「左岸」「右岸」とは、上流から下流に向かって左側か右側かということで区分します。
つまり、豊平川の場合、この写真で言うと、先が海に通じているので、向かって左側が左岸、右側が右岸ということになります。





反対側の右岸方向へ。
先程の地図に書かれていた「鉄一」こと「志村鉄一」は、茂八に対して右岸の渡守に任ぜられ、この地に、「志村鉄一翁居住の地跡」の碑が建立されています。





これが、先程触れた「創成川」。
碁盤の目になっている札幌市中心部は、この川を境に西側が「西〇丁目」、東側が「東〇丁目」となっています。





反対側に向けて一枚。
この位置からの写真は、「ブラタモリ」書籍版第5巻にも掲載されています。





最後に、再び豊平橋の写真。
大学時代の四年間、自転車通学の時は、ほぼ毎日ここを通っていたのだけど、よもやここが、高校時代の「因縁の地」だったとは。
「ブラタモリ」で衝撃の事実を知り、ちょっと複雑な気持ちになりました。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 冬道の参考に | トップ | 冬道は怖いことに変わりなし »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

札幌」カテゴリの最新記事