北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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高野山ゆかりの場所

2017-09-16 20:28:34 | 函館
先週からの「ブラタモリ」は、高野山が舞台。(来週もなんですね)
私も自分で行った時の記憶を思い起こしながら楽しめましたが、気になった点が二つ。
まず一つ、「奥之院」に設置されている企業のお墓は、私も見て、「へぇ~」と思ったのを覚えているけれど、NHKがああいう形で企業名出しちゃって・・・大丈夫なんですね。一切NGだと思ってました。
もう一つは、マスク姿の近江アナも可愛いなあと・・・。(笑)


さて、実は函館にも高野山ゆかりの場所があるのですが、まだ紹介していなかったことに気付いたので、タイムリーな話題として、この機会に紹介したいと思います。





函館公園に近い、市内住吉町にある真言宗の「高野寺(こうやじ)」。
1884年、現在の函館護国神社付近に建立されますが、火災や塩害により三度の移転を余儀なくされ、さらに1934年の大火(この住吉町の民家での出火が発端でした・・・)でも消失してしまい、1937年に鉄筋コンクリート造で再建され、今に至っています。
函館港開港後に本州からやってきた真言宗の檀信徒の間で寺院開設の声が高まり、1883年に、北海道を巡教していた高野山真言管長より新寺建立の許可を得たということが創建のきっかけだそうで、なるほど市内の寺院の中では、比較的歴史が浅い方なのかなと思いました。





このお寺には、北海道の重要文化財指定第一号となる、「木造大日如来坐像」が安置されています。
(「大日如来」も「ブラタモリ」で紹介されましたね)
これは、元々は高野山の大日堂にあったものが、1891年の再々建の記念に総本山である金剛峰寺から寄贈されたもので、1967年に重要文化財に指定されています。
また、指定の翌年1968年には、高野寺は、金剛峰寺より「準別格本山」を拝命しています。





敷地内にある観音像。
これは、「北海道三十三観音」と呼ばれる、西国三十三ヶ所に巡礼したい人のために、そこまで行かずともご利益を受けることができるよう設置された観音像で、その第一番が、この高野寺に設置されています。
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両雄並び立つ

2017-09-16 08:49:13 | 函館









函館市内でも多くの人が人が参拝に訪れる「亀田八幡宮」
今年も今日16日まで例大祭が開催されており、賑わいをみせています。








そしてこちらが、「函館八幡宮」
(すみません、最近行っていなかったので季節外れの写真になっちゃいました・・・)
こちらは、一ヶ月前の8月14日~16日が例大祭の時期で、函館が道内の他の地域と異なり、7月をお盆にしているのは、この例大祭とかち合わないようにしたためという理由もあります。


さて、函館を代表する二つの神社。かつて、この二つの間で、社格争い、ぶっちゃけ言うと、どちらが神社として格上かという争いが起こったことがありました。

格の上下を判断する指標は色々とあると思いますが、例えば歴史に着目すると、函館八幡宮の方は、社伝によると、1445年に亀田郡の領守河野加賀守政通が館を築いた時(この館が箱の形をしていたことが「箱館」の由来となった)、その東南の隅に八幡神をお祀りしたと伝えられているのに対し、亀田八幡宮の方は、1390年に、越前国敦賀郡気比神宮より八幡大神の御分霊を奉遷したのが起源とされています。
よって亀田八幡宮の方が古いことになりますが、歴史関係の本の中には、亀田八幡宮の創建は1492年という説もあると記載されているものもあります。

社格争いが起こったのは1873年と言われており、亀田八幡宮の方が「創建が古く、古くから松前藩が統括し、必勝祈願所でもあった。」という点を主張したのに対し、函館八幡宮の方は、「箱館奉行所が本宮を祈願所とし、蝦夷地総社として崇敬した、いわば蝦夷地の惣鎮守として崇められている。」という点を主張し、譲らなかったとされています。

この争いの決着に大きな役割を果たしたのが、最後の箱館奉行であった杉浦誠という人物で、「新旧に関わらず、函館八幡宮は、地所が函館の中心部にあって本庁舎に近く、氏子は2000であるのに対し、亀田八幡宮は村落部にあり、氏子は900。この二つのうち、函館八幡宮を普通の社として位置付けることは、開拓使の威厳に関わる。」として判断を上申し、最後は政治的決着で、1887年に「国幣小社(国や都道府県から例祭時に費用を支弁される神社)」として位置付けられ、函館を代表する神社とされたということのようです。

争いの決着は一応このような形となっており、確かに現在でも、例えば初詣の参拝客は函館八幡宮が一番多いなどの状況もありますが、亀田八幡宮の方は、1873年当時は村落部だったのが現在はすっかり市街地と言って差し支えない場所にあり、地域の人達に広く根付いた存在として定着しているということも考えると、格の上下をどうこう言うことなく、函館を代表する二つの神社として両雄並び立っていると考えるのがよいのかもしれません。(個人的にです。)
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