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愛知県出身/元浪人生/大学生/教員志望

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「報道の自由」とは何か

2017-06-17 13:12:18 | Weblog
「報道の自由」という言葉がある。憲法第21条に規定された「表現の自由」を根拠とする考え方である。

昭和44年の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」において、最高裁は報道の自由について「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』」に奉仕するものである。したがって、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもない。」とし、取材の自由についても「報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。」と判示した。

ここで重要なのは、「報道の自由」とは国民の「知る権利」にも依拠することである。現代の慌ただしい日常の中で、我々が日々、国内・国外で起きている様々な出来事を知るために、テレビや新聞をはじめとするマスメディアの存在は欠かすことができないものである。

では、テレビや新聞は、その機能を遺憾なく発揮しているだろうか。確かに、新聞を開けば国内・国外のニュースが一望できるし、テレビをつければその時々のトップニュースが繰り返し報道されている。だが、その報道の仕方は特有で、必ずしも「正しい報道」がされているとは思えない。

先日辞任した今村元復興大臣は、「不適切発言」をなじられた。「自主避難は自己責任」や、「東日本大震災は東北で良かった」たる発言を失言と捉えられ、結局自らポストを降りる形となった。

この件について、我々国民の多くは、「なんて酷いことを言う人間なんだ」と素直な感想を抱いたであろう。テレビのコメンテーターが異口同音に唱える「大臣としての資質」に大きくうなずき、新聞の紙面に躍如する「首相の任命責任」に納得したはずだ。こうして我々は、「知る権利」に基づくテレビ・新聞の報道によって、一人の大臣の辞任劇を見送ったのである。

だが、真相はその陰に隠れていた。テレビや新聞では「カット」された、その失言が飛び出すまでの経緯が、YouTubeやウェブサイトに掲載されている。「自主避難は自己責任」とは、避難指示区域外から自主避難をしていた人たちへの補償を打ち切るが、それでもなお自主避難をする人たちは、彼ら自身の判断であるため、自己責任かと聞かれれば、そうであるとしか言えない、と言った半ば誘導尋問的な発言であり、「東北で良かった」は、震災の被害額か25兆円に上るが、これは東北であったためであり、首都圏ではさらに甚大な被害額に上ったのである、という被害の金額に係わる発言であった。

言葉の持つ力は文脈に依る。「君は天才だね」と言う発言も、数学オリンピックの問題を解いた少年に言うのと、シャツを裏返しで着たまま通勤してきた同僚に言うのでは、その意味するところは全く逆になる。

とすれば、テレビや新聞の報道も、問題視する発言を取り上げる際には、その文脈まできちんと報道する責任があるのではないか。我々の「知る権利」を傘にして、「自由に報道」することが、果たして本当に「報道の自由」なのだろうか。「報道の自由」の根拠に上げられる憲法にはまた、「公共の福祉に反しない限り」という文句も明記されている。

我々は日々様々な場所で起きるあらゆる出来事のうち、マスメディアから恣意的に切り取られた一部分だけを味見して、判断しなくてはならない。時には国を二分しかねないトピックが報じられたとして、果たして我々は「正しい判断」を下せるのだろうか。我々が来るべきその時に「正しい判断」を下すためには、日々文脈と向き合い、文脈の中に生きなければならない。マスメディアが喧伝する自由には、それ相応の責任を負ったものであらねばならず、我々もそういった背景を熟知しなければならないのではないだろうか。
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