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文明開化と奈良

2016-12-23 10:53:42 | 大和し、うるわし

 

 近鉄奈良駅前の行基像
 
  (近鉄奈良駅前の行基菩薩像)
 
    最近でこそ「文明開化」は故語になってしまったが、薩長藩閥の明治維新政府にとっては「富国強兵」政策を推し進める為の華やかなスローガンであった。その「文明開化」の象徴が、明治5年、新橋ー横浜間を走った蒸気機関車で、「国鉄」
(今のJR)の開業である。京都=神戸間が明治7年、海岸線沿いに日本一週したのが明治20年代といわれている、
 
   ところが奈良に鉄道が曳かれたたのが、京都-奈良が明治20年代後半、大阪=奈良間にいたってはなんと大正3年の開業である、国鉄開業後40年以上も放つて置かれたといってよい。「文明開化」政策の対象外だったのだ。。理由は簡単で奈良は江戸時代は「天領」で幕府直轄地であったためと内陸深く、山間にあったのが、薩長政府にとっては幕府憎しで「後回しにしたのだろう。
 
   「県名」にしてもそうだ。維新直後の明治4年は「奈良県」であったのに同9年には堺権に編入され、同14年には大阪府にといじくり回しし明治20年になって漸く最初の「奈良県」に戻り今日にいたっている。
 
   学校もだ。 戦前、奈良には帝国大学はおろか、旧制高等学校(3年学習)さえ設置されなかった! 日本海に面した辺鄙な 松江市でさえあったにもかかわらずにである(ついでながら 卒業生に小説家の 北杜夫、マクドナルドの藤田 田がいる(2人とも故人となったが)。そのなかにあって奈良女高師(旧専門学校)がひとり気を吐いて天下の才媛を集めていた。いまの奈良女子大学である。
 
   第二次大戦後の奈良はその静かな環境から大阪や京都への通勤者のベットタウンとなる一方で「南大門」や「大極殿」を再現して1300年のロマンを世界に発信ている。
 
 
   話はいささか変わるが太閤秀吉は大阪を代表、仙台は伊達政宗、福井は松平春獄、鹿児島は西郷隆盛とすれば     、奈良は?筆者は近鉄奈良駅前にある「行基菩薩」が(奈良代表)にふさわしいと思うのだが
  
      みなさんのご意見は?
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能楽と奈良

2016-10-21 18:23:35 | 大和し、うるわし

能楽と奈良

 
 
     Noh a.jpg
       
       ( 船弁慶 )
 
 
   「高砂やこの浦舟に帆を揚げて、、、、、」は、つい50年前までの日本式結婚式では必ず謡われたものだが、これは「ウタイ=謡」といって能楽の基本をなすものだ。能楽は「シテ」、「ワキ」という踊手と「囃し方」(はやしかた)がこの「ウタイ」を担当し、ほかに笙、ヒチリキ、小鼓、太鼓などの楽団の3者で構成されている。豪華なことの好きだった豊臣秀吉が好んだので舞台や衣装も華麗となった。勿論諸大名も真似たから各地に「能楽堂が建ち、「お能」は連綿と平成の現代までつづいている。
 
   しかし、その起源は秀吉よりも遥か以前に遡り、8世紀ごろまでには「猿楽」として大和に成立していたのではないか。いわゆる田舎漫才から昇華して神社、仏閣に奉納するまでになった。大和猿楽がそれで、観世、金剛、宝生、金春の4座があり、各座は興福寺や春日大社などに奉仕していた。その意味で奈良は「能楽」発祥の地であるといえよう。
 
   その後14世紀半ばごろ、時の室町将軍 足利義満に京都の今(新)熊野神社への奉納演舞で
みそめられた(観世)世阿弥は義満の庇護のもとで、いわゆる「幽玄の能」を作りあげ、その後の能楽界の主流となったのである。(この神社には両者の出会いの記念碑がある)。いまでも数多くの「能)が能楽堂や神社、仏閣前での「薪能」などが催されるされているが、その演者(シテ、ワキなど)となるには大変な「ものいりで」一般のひとにはむかない。
 
   それで興味のあるものは、能楽の基本である「ウタイ」を習得して(江戸時代の中級以下の武士の嗜みでもあった)年に1回の「お披露目」への出場に精をだしているのが、各地で見られる(素謡稽古)である。
 
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ショパンとジョルジュサンド 2

2016-09-18 11:30:39 | DONKIの本棚

 

 (ジョルジュ サンド)
 
 
   ジョルジュ サンドというのはペンネームであって、本名はデュドバン男爵夫人。但し夫とは別居して男爵別荘のあったノアン(フランス中央部の田舎街)を離れて2人の子供を連れてパリにやってきた。
 
   GEORGE(ジョルジュ)というオトコ名で小説「アンヂアナ」を書いて一躍名を挙げ、ユーゴー、フローベル ゴーチエなどの後世に名をとどめる作家とも交遊を結んすんだ。が一方ではパリの社交界で (ズボンをはいた男装の麗人) としてもてはやされ、、詩人のミュッセやピアノのリストなどとも浮名を流した。 超有名人といって良い。
 
   ショパンを一目みていつもの恋心が燃えあがった。仲介者はリストともドラクロアだともいわれているが、当のショパンは愛人マリアとの婚約が決まらず(終には破綻)悄然としていた時だったのでサンドとの初対面のときには「何と変な女だろう」と思ったらしい。
 
   しかし、(恋愛)にかけては海千山千のサンドは忽ちにしてショパンを「恋の虜」にしてしまった。超有名人の閨秀作家と新鋭の美青年ピアニストとの恋は忽ちのうちにパリ中を駆け巡った。
 
   余りの噂と息子の病の療養のこともあってサンド一家は、地中海の孤島マジョルカ島への逃避行となった。 一年余りの芳しくない暮らし(宿泊所を3回も変えるほどに)だったが、その間にショパンは有名な「雨だれ」の曲を書いている。微熱のある(肺病)体を押して。
 
   ほうほうの態でマジョルカ島から逃れて、4人はサンドの別荘のあるノアンへ帰ってきた。以来約10年間ショパンは家族同様に暮らしつつ、数々の名曲を書き上げた。その姿を見つめるサンドは愛人でもあり、また慈愛にみちた母親のようでもあったという。
 
   しかし、そのうち子供のことでふたりは対立しあうようになり、いたたまれなくなったショパンは病身の体でガタガタの馬車に一日中揺られながら、ほうほうの態でパリのアパートに帰った。
 
   それから2年もせぬ内に宿病の肺炎により亡くなった。享年39才。(1869年、後のナポレオン3世の2月革命の前年だった)葬儀は今に残るマドレーヌ寺院で行われ、彼の希望でモツアルトの「レクイエム」が演奏されたが、集まった3千人の参列者のなかにサンドの姿は無かった。
 
 
(おことわり)
 
 「続き物」であるにもかかわらず、筆者の怠慢と手違いで第2稿が遅れたことを
    深く お詫び申し上げます。
  DONKI
 
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ショパンとジョルジュ・サンド

2016-07-19 16:53:49 | DONKIの本棚
ショパンとジョルジュ・サンド
 
 
(親友のドラクロア作のショパン)
 
     皆さんはピアノの白鍵と黒鍵の合計がいくつか?ご存知でしたかそうです 88鍵です。(因みに88は人の感知可能な音域の限界だとか)
 
     しかしモツアルトの時代(18世紀後半)は違いました。61鍵でした。ベートーベン時代(19世紀初頭)は82鍵、ショパン(19世紀中ごろ)になってようやく今の88鍵になったのです。 なお「近代音楽の父」と言われるバッハの時代(18世紀前期)にはピアノではなく、構造的には違うハープシコードが主流でした。
 
     ショパンはポーランドの首都ワルシャワで生まれました(1810年)。音楽趣味の家庭に育ったこともあって、上記のモツアルトやベートーベン同様7歳のときにはワルシャワの大ホールでピアノ演奏を披露して、神童の名をほしいままにしました。ワルシャワの音楽学校を主席で出たあと20才で花の都パリの社交界にデビュー。
 
     その貴族的な風貌、そのしなやかで指の長い手さばき、そこから流れ出るる繊細優美な旋律にパリの上流社会のサロンのひとびとは酔いシビレました。令嬢方のレッスンの依頼が殺到、ショパンは音楽家としては教科のみで自立できる最初のひととなりました。(冒頭三人の楽聖たちは教会や領主に雇われて生活していました)
 
     ショパンは生涯のほとんどをパリで過ごし230曲以上のピアノ曲っを世に出し、それをみずからもサロンで演奏しました。「別れの曲」、「雨だれ」、「革命」、「軍隊行進曲」、「ノクターン」などは今日でもたびたび演奏され親しまれているのはご存知のとおりです。。
 
     しかしながら上記の曲を含めて、ショパンの曲は技巧を極めており難解で筆者のようなズブの素人にはまったく歯が立ちません。そこで毎年プラハで開かれるショパンコンクールは世界の3大音楽祭のひとつとしてピアノを志す若者の登竜門としても有名です。
 
     さて話をもとに戻しましょう。パリの寵児になったショパンの前に「恋多き女」ジョルジュ。サンドが現れたのです、、、(次回)、、、
 
  (参考書)  遠山一行   「ショパン」
 
         平野 啓一郎  「葬送」 (平野氏は日本のショパン研究の第一人者、だがこの本は難解)
 
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春日野

2016-03-22 11:12:32 | 大和し、うるわし

 

     (飛 火 野)

   「春日」をすんなりと「カスガ」と読めるのは近畿圏の人たちだけではなかろうか?さてこの「カスガ」の意味については いろいろの説があるが、私はそのなかの(神住処=かすか=神様のお住いになる所)の説をとりたい。なお「カスガ」に「春日」の漢字を充てた由来は解らないが、〔古い地名は良い字の二字にせよ)という好字令(AC712)に沿うものであったことは間違いない。
 
   そしてこの「カスガ」とは言うまでも無く 春日神社 のことである。このお社は平城京の守り神として都城の東北に設けられたのがその初りだが都が京都に移ってからは藤原氏が己が本籍地の氏神として祭祀した。「藤原氏 千年の栄華」と伴にこのお宮も発展し奈良地区の一の宮として式年遷宮も行う格式高く 今日に到っている。
 
   「春日野」はこのお宮を基点に大きく広がっている草園だ。東に春日山、三笠山をひかえ、園の中には一筋の清流が流れていて美しい。神獣としての鹿の群れもここの名物だ。奈良のシンボルキャラクターででもある。
 
   なお、この春日野はかっては「飛火野(トビヒノ)」と呼ばれていた。8世紀はじめに狼煙台(のろしだい)が設けられたのがこの名の起こりだといわれている。
白村江の戦い(7世紀後半)に敗れた日本は強国である中国唐の襲来に備えて九州博多から当時の都の近江までを繋ぐ狼煙台を各地の主要拠点に設け緊急時に備えた。この近辺では他に生駒の高安山がある。
 
   今、この野に立っ時 以下の句が心に浮かんだ
 
 
        春日野の 飛火の野守 出でて見よ
            
             今いく日ありて 若菜摘めてむ    〔古今和歌集)
     
 
        「いきいきと 三月生(う)まる 雲の奥」     (飯田龍太)
      
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「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

2016-01-30 16:52:16 | 大和し、うるわし
 
 
(法隆寺 夢殿)
 
ふと思った。
この句の最後の「法隆寺」を「東大寺」や「興福寺」に置き変えてみたらどうなるだろう?  「俳句」になるか?、、、、、
 
この句を読んだ正岡子規は当時東大寺の裏手に居たとされている。それならば、目の前の東大寺か、近くの興福寺を採りあげるのが極く自然ではないか、わざわざ遠くの法隆寺を持って来たのは 何故か?
 
子規は日清戦争(明治27~28年)の従軍記者としての帰国途中の下関で喀血し「血をはくホトトギス」に因んで自分の俳号とし、その漢字表記である「子規」を名乗った。療養後、四国松山中学校に赴任していた親友の夏目漱石の下宿先「愚陀仏庵」に転がりこんで盛んに句会を開いた。漱石の「俳句」もこの頃から本格的に始まっている、、子規を師匠として。1月余滞在の後 帰京の途中で奈良に立ち寄った。その時の句だ。
 
東京の根岸に居を構えて「六尺の病床」に伏しながら新聞「日本」の文芸欄を受け持ち、盛んに 俳句、和歌、文学などに健筆を振るった。
特に俳句については、江戸時代の「貞徳派」や「談林派」などを俳諧の堕落であるとコキオロシて松尾芭蕉の「軽み」「ワビ、サビ」などを賞賛、その衣鉢を継ぐ 蕪村の名を世に広めた。またそれまでは俳諧といえば今で言う「連歌」のことを言ったが、子規はその発句を独立させて五七五の十七文字だけで完成。(俳句)と名づけて、一般大衆により親しみ易いものとした。
 
そのうえで作句の基本は「写実」であらねばならない。 ありのまま、見たまま を詠うのだト。私情や感想などは勿論、殊更に「花鳥風月」を賞賛すべきではないト説く。弟子の高浜虚子に命じて俳句雑誌「ほととぎす」を創刊した。この俳誌「ほととぎす」は虚子の子 年尾、 孫 稲畑汀子、 ひ孫 稲畑広太郎と引き継がれ現在でも俳壇を睥睨し、君臨している。しかし虚子は「俳句は花鳥風月を詠うのが本旨)と宣言、「ほととぎす」もその趣旨を連綿と今に受け継いで来ている。然し「これは可笑しいのではないか? 少なくとも(写実)を基本とした恩師の子規の理念とはいささかズレているのでは?」 と筆者は思っている。例えば(病床六尺)の「鶏頭の十四五本もありぬべし」是非論争などに見られるように。(この句を虚子は黙殺し、反って和歌の斉藤茂吉は大いに賞賛した)
 
最後に巻頭の「法隆寺」以外では「俳句」にならないのでは? についての筆者なりの考えを述べよう。
東大寺は全国の国分寺の総本山、国家仏教であり、あまりにも重々しくて(軽み)を旨とする俳句には馴染まない。現に(東大寺を詠んだ名句)など殆どない。和歌にはある、会津八一など。  この辺が和歌と俳句との違いか、、、、)
また興福寺は子規が来た時点では未だ明治初頭の「廃仏毀釈」の際にみられた同寺僧侶達の狂乱、堕落、醜態の記憶が未だ生々しく残っていて、子規も句に取り上げる気にもなれなかったのではないか? 
       それらに較べて、法隆寺には心に響く深遠ないロマンがある!
 
               さて、  皆さんのご意見は?
 
 
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蕪村

2015-10-18 18:05:32 | 大和し、うるわし

 蕪村

 
  
 
      (j十便図  池 大雅)
    
  
   (十宜図   蕪村)
 
 
           古池や 蛙飛び込む 水の音
 
    この子供でも知っている句は江戸元禄の頃の俳聖 芭蕉の作であるが、その半世紀後彼を生涯、文芸の師 と仰いで、  崩れかけた京都の 「芭蕉庵」を再興し その横に自分の墓をも建てた江戸後期の俳句中興の祖といわれるのが 与謝野 蕪村 である。
 
           春の海 ひねもす(終日) のたり のたり かな
 
              月天心 貧しき町を 通りけり
 
    これは蕪村の余りにも有名な句。現代俳句の提唱者と言われる 正岡子規 は芭蕉には「ワビ」「サビ」、蕪村には「優美」を見出して、あれほど古典俳句を貶したにかかわらず、この二人には「俳諧」の巨匠と讃えた のである。「蕪村俳句」のなかにある「写実性」を見たのであろうか?。
 
    片方で蕪村は所謂「文人画」も描いている。否、寧ろこの「画家」のほうが彼の本業だったのだ。生涯に百点にあまる絵を描き、「俳画」の祖といわれている。
 
    上掲の画は親友の文人画の大家 池大雅との競作で「中国〔清)の詩人李魚が山麓の己の草庵に客を招いた時、〔静かは静かであろうが、不便であろう その草庵の暮らしぶり」を画いたものとされている。不日、筆者は京都銀閣寺 東求堂の公開のとき 上掲図を拝観した記憶があるが、当時は蕪村のことはなにも知らなかったにもかかわらず、この「十便中宜図」に深く感動したものである。
 
    なお、最近 天理大学で212首の未発表の蕪村の句が発見されたとかで話題になっているが 機会があれば是非拝見したいと思っている。終りに 筆者の好きな句の二、三をあげておこう。
 
            菜の花や 月は東に 日は西に
 
                五月雨や 大河を前に 家二軒
 
                    爺(ジイ)も婆(バア)も 猫も杓子も をどりかな
        
    
 
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金閣寺・銀閣寺

2015-08-20 09:29:33 | 大和し、うるわし

 

Kinkaku3402CBcropped.jpg
     
    (金閣寺)
 
   FF 奈良では外人を招いた時には必ずと言ってよいほど京都の金閣寺へと案内する。何故か?  同寺が華麗な日本文化を代表する建物であり庭園であるからだ。この寺は約600年程前に時の3代将軍 足利義満によって自分の住居、政庁として建てられたものだがその後幾世紀のあいだに取壊し、火災などによって殆ど消滅、今では戦後再建された「舎利殿」を中心とした庭園が「金閣寺」だ。   正式名称は「鹿苑寺」という。
 
   舎利殿の構造は1階が(寝殿造り=天皇、公家の住い)、2階が(書院造り=武家の住い)3階は(禅宗仏殿造り=法体になった義満自身の住い)、屋上の鳳凰の飾りは(中国では聖天子の象徴)となっており、義満が天皇をも越える権力を誇示した建物とも言われている。取り巻く「回遊式庭園」は平安朝以来の宮廷、貴族の様式である。
 
   絢爛豪華、金箔で包まれたキンキラの「たたずまい」は まさしく外人向きの「日本紹介」だ。
 
   京都には西の「金閣寺」に対して「銀閣寺」が東山の麓にあることはご存知のとおりである。但しここは「外人向き」ではない。その理由はこの寺は建物に銀箔も貼っていないし、2階建てで小さく簡素であるからだ。所謂「見栄え」がしないのだ。
  
   しかし、日本人にはここでの静寂、わびさびの風情が寧ろ好ましい。それもその筈で、この寺はもともとは義満の孫の8代将軍義政が隠居所として建てたものだからだ。 「銀閣」と言われる(観音殿)を含めた庭園全体の正式名称は『慈照寺」という。
      (銀閣寺)                           
 
   この庭の中に(国宝 東求堂)があって日本最初の「書院造り」の部屋がある。{床の間」、「違い棚」、「明かり障子」を開ければ小奇麗な「庭」が望めるという拵えだ。この様式の建物はこれ以降日本敗戦までの500年以上もの間日本家屋の主流となったのだ。
 
   なお、この両寺の施主である義満、義政、について付け加えれば、前者は50年以上も続いた南北朝の戦争を収束、両朝を統一させるなど、15代約200年の室町幕府将軍中最も勢威の盛んだったのに対して、孫の義政時代は「応仁の乱」により京の街は荒れ果て、死屍累々で
      「汝や知る 都は野辺の夕ひばり 挙がるを見ても 落つる涙は」
と詠われるようななかでも、政治にはそ知らぬ顔で銀閣寺造営ばかりにうつつを抜かしていたという。しかし彼の残した「書院造り」は「床の間」は(書画文化=掛け軸、 活け花)、「違い棚」は喫茶文化(茶の湯)を生み出す端緒を開いた。 所謂「東山文化」の誕生だ。
 
   3代義満も能楽の前身である奈良猿楽4座 観世、宝生、金剛、金春のうち金剛、金春が興福寺に属したので、観世の祖である元雅を特別に庇護し、武家の式典、供応などに出演させたことがキッカケとなって江戸時代は武士階級の、明治維新後は中、上流階級層に受け継がれこんにちに到るも隆盛である。
      (4座のなかでも「観世」は今も(能楽)の主流といわれている)
 
   巷間よく耳にする「室町時代」は「現代」につながる」というのは この辺のことだろう。 
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聖徳太子 廟(2)

2015-06-17 10:48:33 | 大和し、うるわし

 

   (太子とその子供)

   太子のお墓〔古墳)が何処にあるか、ご存知だろうか?

 
   大阪の四天王寺を出て生駒山を越え奈良に到る我国最初の官道を「竹の内街道」という。
その街道が生駒にせまる道筋に「太子町」があり、叡福寺がある。太子の墓はこの寺の奥だ。直径約50mの円墳、小さい終末期古墳で、太子が生前につくらせたものという。(日本書紀)近くには敏達、用明、推古天皇など太子の近親者の立派な御陵が点在し、このあたりは「日本の王家の谷」と言われている。 
 
   太子は歴代天皇の御陵が大きく立派過ぎて人手と経費がかかりすぎるのを戒めて「薄葬令」を
発布した方だから 自身の墓が小さいのは自ら範を示されたものと言える。しかしながらこの太子廟は合葬墓なのである。奥に太子の母親の間人皇后、手前に膳部夫人(皇后より身分が低い)と並ぶ形で三体が安置されている。これは一体どうしたことか?
 
   歴代大王同然の地位にあった人の御陵の様式ではない。大王墓は
   ① 原則として単身で、お棺は堅牢な石造り(時間がかかる)なのである
   ② たとえ合葬の場合でもでも相手は正妻(この場合は刀自古郎女=蘇我馬子の娘)でなければならない。間人皇后の棺のみが石棺で、太子と夫人の棺は乾漆の安直な造りなのも変だ。
 
   このことから言えるのは、少なくとも太子はまともな「死に方」をばしていない。摂政の地位を追われたばかりか、蘇我馬子にうとまれて(恐らく外交政策の対立で?)政権より遠く離れた斑鳩の地に隠棲しているうちに、刺客に殺されたか?(在り得ない事ではない、太子の子と言われる山背大兄皇子一家は蘇我入鹿(馬子の孫)に取り囲まれ自殺している) 自死か?
 
   以上のことは日本書紀ほか後世の歴史書、資料などから類推されることだが、極端なことを
言うひとは 「このご廟のことも含んで諸書を検討した結論は、聖徳太子なんてはじめから居なかった! 自家の正当性を言わんが為の書記を撰上した藤原不比等のデッチアゲた虚像に過ぎないのではないか?」
                                         〔矢沢永一氏 説)
 
                   皆さんはどう思はれますか?
 
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聖徳太子 廟(1)

2015-06-12 21:35:16 | 大和し、うるわし

(太子とその子供)
 
   1300年も前の聖徳太子様が貴方の傍にいる、、、、と言えば 「?」 と思はれるだろう。しかし、本当にいるのだ。  貴方の財布の中に、、、、若し一つ前の一万円札を持っておられたらの話だが。   肖像画は正しく聖徳太子その人である。しかも高額紙幣の「顔」となられたのはこれだけではない。
戦前の10円札、5円札もそうだったし、上記の一万円札は七度目の登場である。
こんな人は他にはいない。
何故 日本人〔日本国と言い換えてもよいが)はこれほどまでに太子をあがめ、大事にするのか。
それは以降千年以上に亘って続く、「日本社会のありよう=基本となる理念」を示されたからである
と筆者は考えている。
 
   太子が推古天皇の摂政=事実上の支配者=の時に出された〔十七条の憲法)のなかで
① 和をもって尊しとなし、、、、これは政治を含めてすべての物事は対立や独断ではなく、
  和やかな合議制でこれをを処理せよ、、、ということででこの理念は江戸時代の
  幕藩体制まで続いた。
② 篤く三宝(仏教)を敬え、、、、、みずからも四天王寺を建立するほか難しい仏教経典
  の講義をするなどして、その後の日本仏教発展の端緒を開いた。この時以降日本の
  宗教は仏教一色だったといっても過言ではない。(神さまは常に仏さまの下位にいた)
 
   戦前、戦時中ならもう一つ加えて 「日出ずるところの天子、日没するところの天子にいたす、、、、、」の国書を時の超大国隋の煬帝に送って国威を挙げた、、、とおおいにフキまくったが、これは当時の外交儀礼に反することで煬帝を激怒させ、あわや「日本襲撃」の事態になりかねなかった。
 
   ともあれ、こんなに日本のために尽くしたひとが、その晩年は身をかくすように「夢殿」に篭もり
果ては自殺でもしたかのように膳部夫人(身分の低い媛)とともに亡くなる。
             
     何故か?   どうしたのか?
 

 

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