気狂いピエロ (1965)フランス PIERROT LE FOU
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、サミュエル・フラー
伝説的なゴダールの名作や。破滅に向かってまっしぐらに突き進みながらも、その逃避行の間中、アンナ・カリーナにコケにされまくるベルモンドはまさに愚か者の典型で、支離滅裂な生き様(死に様)が当時はめちゃカッコよかった。
20才の頃、遅れてきた映画青年やったおっちゃんは、どうにかしてこの映画を観たいと熱望した。そのころはレンタルビデオもDVDもなかったから一度見逃すとなかなか観ることが叶わなかった。なんとか四方八方手ェ尽くして、どこかの名画座やったか大学の学生会館やったか、えらいタバコの煙が漂うとる中で観たよーな気がする。
この映画に描かれてる刹那的な青春は、遠い海の向こうの新進監督による前衛的な映画以上にお伽噺めいていて、ほとんどロマンチック・ファンタジーの世界やった。エンディングで、あのダイナマイトの炸裂の後の、アルチュール・ランボーの「また見つかった。何が。永遠が。海と溶け合う太陽だ」の一節の強烈な一撃がおっちゃんのテンプルに撃ち込まれ、熱に浮かされたよーな朦朧とした意識で映画館を後にしたものやった。
青春とは愚かなことに夢中になれる季節や。その愚かさに気ィついたときはもう青春は終わりかけてるんやけど、愚かなおっちゃんは地上3センチ程浮き上がったまま浮遊してた。平凡な日常からの脱却を願って愚かにも彷徨い続けた。今となっては、妄想癖のある愚か者やったと思うだけやけど。。。
30年ぶりで再会したベルモンド=フェルディナン=ピエロも、実に愚かな奴やった。こっちが分別くさいおっさんになったのを差し引いても、この男のやることには思慮分別というものが足りん。19やはたちの若造とちゃうんや。1933年生まれのベルモンドは、この映画が製作された1965年には32才にもなっとる。子供までおるお父ちゃんの役柄や。ハッキリゆーて青年期は終わってる。役者の実年齢と役の年齢は必ずしも一致する必要はないが、少なくともはたち前後の設定ではない。ランボーが19才で詩におさらばしたのとはワケがちがう。「エエ歳こいてアホちゃうか」と嘲笑されてもしゃーない年齢やった。
『イージライダー』のピーター・フォンダは29才、デニス・ホッパー32才、このふたりに比べてもやることがガキっぽすぎる。まだしも『フォーリング・ダウン』のマイケル・ダグラス(製作当時48才)のオヤジがマジギレする方が納得出来る。全編シナリオなし、即興演出で撮影したといわれてるが、やはりこの映画は監督の思いつきによる茶番劇でしかないのか。。。
・・・と初めは思ったんやが、この映画はやっぱり、ゴダールのアンナ・カリーナへの想いが作らせた映画のよーな気ィがしてきた。ゴダールにとって、彼女は掌中の珠、創造の女神のよーな存在やったんやろ。1930年生まれのゴダールは当時35才。アンナ・カリーナ25才。もう若くないことを自覚しはじめたゴダールは、私生活でも若いアンナ・カリーナに翻弄されてたんとちゃうやろうか?そこで我が身をベルモンドに置き換え、徹底的に振り回される映画を作ったんやろ。
この映画では、アンナ・カリーナの存在が衝撃的や。最初に登場したときは、地味な服装で女学生のような印象やったが、彼女が演じたマリアンヌこそが最悪のシナリオライター、諸悪の根元、地獄の水先案内人、ファム・ファタール。古くさい言い方をしたら、男を翻弄し、破滅へ導く根っからの悪女やった。しかし、この頃のアンナ・カリーナは、恐ろしく魅力的や。決して凹凸のはげしいボディやないし、ブロンドでもない。中肉中背で華奢なくらいや。しかし、強さとしたたかさをもち、邪悪な無邪気さ、八方破れの奔放さをもっていた。このまま歳をとることなんかないやろと思わせる、永遠の若い女やった。
それにしても、DVDの字幕の翻訳が最悪やった。エンディングの光る海をバックに女性のささやき声で語られる、あのランボーの「地獄の季節」の一節が、なんと「そして太陽 永遠を それは海 そして太陽」なんじゃこりゃ?
このラストシーンのランボーの詩のナレーションが男の声やなく、女(多分アンナ・カリーナ)の声やったとゆーことは、アンナ・カリーナ=アルチュール・ランボーで、ベルモンド=フェルディナン=ピエロ=ゴダール=ヴェルレーヌという監督の意図があったんやないやろか。これならブルジョア家庭を捨てて、アンナ・カリーナとの地獄への道行きを選んだベルモンドの行動も説明できる。
日本におけるランボーの翻訳では、小林秀雄訳が定番のように思ってたが、あの篠沢教授がフランス語の原文に忠実に翻訳した「地獄での一季節」では、前出の部分は「あった、あった! 何が? 永遠が。 太陽に混ざる 海なのさ。」となっている。教授によると、ランボーは古風な語法やら教会の神父のような堅苦しい言い回しの中にざっくばらんなしゃべり口調や卑語、見せ物小屋の呼び込みの口上なんかを取り混ぜて書いてるのやそーだ。そこで、ネイティブスピーカーなら普通に読みとるニュアンスをその通り日本語に移し替えた(可能かどーかは別にして)ものが篠沢訳で、小林訳とは大きく趣が異なってる。タイトルからして「地獄での一季節」となってる。おっちゃんとしてはちょっと困ってしまうんや。誤訳に基づく深読みではホンマ漫画みたいな話やが、悲壮感漂うマニフェストのような格調高い檄文やと思いこんでたのが、突然、戯れ言ともとれる独白のようなもんを読まされたとった言われたら、戸惑ってしまうやんかいさ。
邦題の『気狂いピエロ』の「気狂い」なんちゅう言葉は辞書に載ってへんぞ。「きぐるい」で変換したら「器具類」しか出てこない。なんで映画会社は、こんな奇妙な邦題をつけたのか?原題を忠実に翻訳するのがマズイんやったら、お得意の『愚か者、その名はピエロ』とか『地獄のピエロ』とかにした方がましやったんちゃうやろか。
[気狂い]は、もともとの読みで広辞苑などには載ってるらしいんで、ちょっと調べてみた。おっちゃんの書斎(どこが書斎やねん)の本棚に鎮座まします広辞苑はえらい古い第1版と第2版やったが、それにはもともとの読みに当たる漢字として、[気狂い]は載ってなかった。しかし、会社にあった第4版を見ると、なななんと[気狂い]もあるやないか。ただし、[狂]の右上にアウトラインの三角形を逆さにしたマークがついてるが。。。ここでおっちゃん、よーく考えてみた。お金も大事やけど、普通広辞苑ゆーのんは、読みからそれに当たる漢字を見つけるのはたやすいけど、熟語からその読みを調べるのは難しい。[艱難辛苦]を[かんなんしんく]と読めたら、[艱難辛苦]の項にすぐにたどり着けるるワケや。しかるに、この[気狂い]とゆー言葉を初めて見た、いたいけな若い子ォがなんて読むんか調べよ思ても、[きぐるい]では載ってない。[狂]の訓読みのところに[くるう]とゆー読みはあっても、[ちがう]とも読むとは書いたーらへん。とゆーことは、[気狂い]からは、もともとの読みには辿り着けんちゅーことや。ちなみに、広辞苑の第2版第14刷は、1974年12月発行で、第4版第1刷は1991年11月発行やった。この間に言葉狩りに会うたんや、そーゆーことなんちゃうやろか。
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、サミュエル・フラー
伝説的なゴダールの名作や。破滅に向かってまっしぐらに突き進みながらも、その逃避行の間中、アンナ・カリーナにコケにされまくるベルモンドはまさに愚か者の典型で、支離滅裂な生き様(死に様)が当時はめちゃカッコよかった。
20才の頃、遅れてきた映画青年やったおっちゃんは、どうにかしてこの映画を観たいと熱望した。そのころはレンタルビデオもDVDもなかったから一度見逃すとなかなか観ることが叶わなかった。なんとか四方八方手ェ尽くして、どこかの名画座やったか大学の学生会館やったか、えらいタバコの煙が漂うとる中で観たよーな気がする。
この映画に描かれてる刹那的な青春は、遠い海の向こうの新進監督による前衛的な映画以上にお伽噺めいていて、ほとんどロマンチック・ファンタジーの世界やった。エンディングで、あのダイナマイトの炸裂の後の、アルチュール・ランボーの「また見つかった。何が。永遠が。海と溶け合う太陽だ」の一節の強烈な一撃がおっちゃんのテンプルに撃ち込まれ、熱に浮かされたよーな朦朧とした意識で映画館を後にしたものやった。
青春とは愚かなことに夢中になれる季節や。その愚かさに気ィついたときはもう青春は終わりかけてるんやけど、愚かなおっちゃんは地上3センチ程浮き上がったまま浮遊してた。平凡な日常からの脱却を願って愚かにも彷徨い続けた。今となっては、妄想癖のある愚か者やったと思うだけやけど。。。
30年ぶりで再会したベルモンド=フェルディナン=ピエロも、実に愚かな奴やった。こっちが分別くさいおっさんになったのを差し引いても、この男のやることには思慮分別というものが足りん。19やはたちの若造とちゃうんや。1933年生まれのベルモンドは、この映画が製作された1965年には32才にもなっとる。子供までおるお父ちゃんの役柄や。ハッキリゆーて青年期は終わってる。役者の実年齢と役の年齢は必ずしも一致する必要はないが、少なくともはたち前後の設定ではない。ランボーが19才で詩におさらばしたのとはワケがちがう。「エエ歳こいてアホちゃうか」と嘲笑されてもしゃーない年齢やった。
『イージライダー』のピーター・フォンダは29才、デニス・ホッパー32才、このふたりに比べてもやることがガキっぽすぎる。まだしも『フォーリング・ダウン』のマイケル・ダグラス(製作当時48才)のオヤジがマジギレする方が納得出来る。全編シナリオなし、即興演出で撮影したといわれてるが、やはりこの映画は監督の思いつきによる茶番劇でしかないのか。。。
・・・と初めは思ったんやが、この映画はやっぱり、ゴダールのアンナ・カリーナへの想いが作らせた映画のよーな気ィがしてきた。ゴダールにとって、彼女は掌中の珠、創造の女神のよーな存在やったんやろ。1930年生まれのゴダールは当時35才。アンナ・カリーナ25才。もう若くないことを自覚しはじめたゴダールは、私生活でも若いアンナ・カリーナに翻弄されてたんとちゃうやろうか?そこで我が身をベルモンドに置き換え、徹底的に振り回される映画を作ったんやろ。
この映画では、アンナ・カリーナの存在が衝撃的や。最初に登場したときは、地味な服装で女学生のような印象やったが、彼女が演じたマリアンヌこそが最悪のシナリオライター、諸悪の根元、地獄の水先案内人、ファム・ファタール。古くさい言い方をしたら、男を翻弄し、破滅へ導く根っからの悪女やった。しかし、この頃のアンナ・カリーナは、恐ろしく魅力的や。決して凹凸のはげしいボディやないし、ブロンドでもない。中肉中背で華奢なくらいや。しかし、強さとしたたかさをもち、邪悪な無邪気さ、八方破れの奔放さをもっていた。このまま歳をとることなんかないやろと思わせる、永遠の若い女やった。
それにしても、DVDの字幕の翻訳が最悪やった。エンディングの光る海をバックに女性のささやき声で語られる、あのランボーの「地獄の季節」の一節が、なんと「そして太陽 永遠を それは海 そして太陽」なんじゃこりゃ?
このラストシーンのランボーの詩のナレーションが男の声やなく、女(多分アンナ・カリーナ)の声やったとゆーことは、アンナ・カリーナ=アルチュール・ランボーで、ベルモンド=フェルディナン=ピエロ=ゴダール=ヴェルレーヌという監督の意図があったんやないやろか。これならブルジョア家庭を捨てて、アンナ・カリーナとの地獄への道行きを選んだベルモンドの行動も説明できる。
日本におけるランボーの翻訳では、小林秀雄訳が定番のように思ってたが、あの篠沢教授がフランス語の原文に忠実に翻訳した「地獄での一季節」では、前出の部分は「あった、あった! 何が? 永遠が。 太陽に混ざる 海なのさ。」となっている。教授によると、ランボーは古風な語法やら教会の神父のような堅苦しい言い回しの中にざっくばらんなしゃべり口調や卑語、見せ物小屋の呼び込みの口上なんかを取り混ぜて書いてるのやそーだ。そこで、ネイティブスピーカーなら普通に読みとるニュアンスをその通り日本語に移し替えた(可能かどーかは別にして)ものが篠沢訳で、小林訳とは大きく趣が異なってる。タイトルからして「地獄での一季節」となってる。おっちゃんとしてはちょっと困ってしまうんや。誤訳に基づく深読みではホンマ漫画みたいな話やが、悲壮感漂うマニフェストのような格調高い檄文やと思いこんでたのが、突然、戯れ言ともとれる独白のようなもんを読まされたとった言われたら、戸惑ってしまうやんかいさ。
邦題の『気狂いピエロ』の「気狂い」なんちゅう言葉は辞書に載ってへんぞ。「きぐるい」で変換したら「器具類」しか出てこない。なんで映画会社は、こんな奇妙な邦題をつけたのか?原題を忠実に翻訳するのがマズイんやったら、お得意の『愚か者、その名はピエロ』とか『地獄のピエロ』とかにした方がましやったんちゃうやろか。
[気狂い]は、もともとの読みで広辞苑などには載ってるらしいんで、ちょっと調べてみた。おっちゃんの書斎(どこが書斎やねん)の本棚に鎮座まします広辞苑はえらい古い第1版と第2版やったが、それにはもともとの読みに当たる漢字として、[気狂い]は載ってなかった。しかし、会社にあった第4版を見ると、なななんと[気狂い]もあるやないか。ただし、[狂]の右上にアウトラインの三角形を逆さにしたマークがついてるが。。。ここでおっちゃん、よーく考えてみた。お金も大事やけど、普通広辞苑ゆーのんは、読みからそれに当たる漢字を見つけるのはたやすいけど、熟語からその読みを調べるのは難しい。[艱難辛苦]を[かんなんしんく]と読めたら、[艱難辛苦]の項にすぐにたどり着けるるワケや。しかるに、この[気狂い]とゆー言葉を初めて見た、いたいけな若い子ォがなんて読むんか調べよ思ても、[きぐるい]では載ってない。[狂]の訓読みのところに[くるう]とゆー読みはあっても、[ちがう]とも読むとは書いたーらへん。とゆーことは、[気狂い]からは、もともとの読みには辿り着けんちゅーことや。ちなみに、広辞苑の第2版第14刷は、1974年12月発行で、第4版第1刷は1991年11月発行やった。この間に言葉狩りに会うたんや、そーゆーことなんちゃうやろか。