歩かない旅人

 彼がなした馬鹿げたこと・・・彼がなさなかった馬鹿げたことが・・・人間の後悔を半分づつ引き受ける。ヴァレリー

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2016-09-18 12:46:57 | ブログ欄を探索して遊ぶ。

 

  


 ≪憲法を生命より上位に置く倒錯≫

 2015-09-17 09:35:29 | 産経新聞を読んで

 

  慶応大学では同僚の教授たちが相手を呼び合う際にどこの大学でも使う、「山田先生」とか「田中先生」とは呼ばないで、「田中君」、「山田君」と呼ぶそうです。先生は唯一人、「福沢諭吉先生」しかいないからだと言うのです。

 

  戦前、プロ野球よりも人気があった野球の「早慶戦」も。慶応大学だけは「慶早戦」と呼ぶそうです。一万円札の肖像に福沢諭吉翁が使用されたのも、早稲田大学にとっては、首相まで務めた大隈重信氏が負けてしまって悔しがっているそうです。

  

  我々の福沢諭吉翁について知っている知識は、慶応大学を創立し、「脱亜論」という書物を表し、しかもそこに書かれているように言っていることの意味がやっと我々に、身近に分かってきたのもこの思想があったからです。


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  【正論】  2015年9月16 日付

 

  福澤諭吉における「立国の公道」 

     

           拓殖大学総長・渡辺利夫

 

 中国は“遅れてやってきた帝国主義国”である。持続的な高成長により掌中にした資金力をもって軍事力の強大化を図り、新覇権国家として世界に君臨したいという欲望を抑え切れないのであろう。

     

 さもありなんである。米国は9・11同時多発テロ事件以来、世界の警察官であるよりも前に米本土防衛を主眼とする戦略へと舵(かじ)を取り、ピボットと称される東アジア基軸戦略も東シナ海・南シナ海への中国の膨張を押し止める力を発揮できないでいる。

  

   日本は平成不況にはまり込んで以降の長期低迷から脱する見込みがなお立たず、加えてこの間、少子高齢化の顕著な進行により経済社会の全体が衰亡化の様相を呈している。

 ≪憲法を生命より上位に置く倒錯≫

 東アジアの現状変更勢力が中国であることに疑いはない。これに抗して東アジアの勢力均衡を辛くも保持する力量をもつメカニズムが日米同盟である。国際秩序を守るメカニズムが勢力均衡だという論理の基本には、古典も現代もない。

 違いは、現代の勢力均衡のありようが古典の時代に比べて格段に複雑化し、その分だけ高度の戦略的思考と情勢分析能力が必要だということだけである。

  集団的自衛権は個別的自衛権とセットになってすべての主権国家に賦与されている固有の権利である。中国の尋常ならざる軍拡を前にしながら、

 憲法の制約のゆえになおこの固有の権利までが認められないというのであれば、帰結は憲法を国民の生命と財産より上位におくという倒錯である。

  

   個別的自衛権をもって外敵に対処可能だと主張する者がいる。本気でそんなことを考えているのだろうか。国益の核心への侵犯がいよいよ差し迫り、それでもなお座して死を待つ国家などどこに存在しえようか。

 個別的自衛権の法的な閾値(いきち)を大きく超えて他国の領域に侵入せざるをえなくなる羽目に陥る危険性は、国家が生存本能をもつ存在である以上、十分にあり得る。その程度の想像力を人々はなぜもてないのか。

 ≪ナショナリズムの強化を≫

 米国の覇権の大樹の陰に身を隠し秘やかにも安穏な人生を送ることができた時代はもはや過去のものだ。戦争は非道である。

 ならばその非道の抑止にはいかなる戦略が最適かに関心を向けないのであれば、人生の平仄(ひょうそく)が合わないではないか。

 官軍に矢を引いて西南戦争を引き起こした西郷隆盛を批判する往時のジャーナリズムを「政府の飼い犬に似たり」と蔑(さげす)み、国民の抵抗の精神を衰頽(すいたい)させる「文明の虚脱」だと難じたのは福澤諭吉である(「丁丑(ていちゅう)公論」)。

   

   福澤といえば「文明開化」なる用語を編み出し、著作『西洋事情』『文明論之概略』により維新期日本の欧化政策に絶大なる寄与をなした啓蒙(けいもう)思想家である。

 その福澤の思想的立脚点の一つが「立国は私なり、公に非ざるなり」(「痩我慢之説」)であったことに思いを致そうではないか。

 帝国主義列強がアジアを蚕食する一方、支那、朝鮮がこの「西力東漸(とうぜん)」の国際政治力学を理解できず「旧套(きゅうとう)」の中に「窒塞(ちっそく)」するという現状を前にして、

 福澤は「公」(コスモポリタニズム)ではなく「私」(ナショナリズム)の強化こそが「立国の公道」であることを激情をもって訴えた。

  

   文明は普遍である。この原理において欧米は日本より先んじているとはいえ、普遍には遠い。この段階にあっては、国家という存在と忠君愛国なる「私情」が不可欠である。

 確執限りなき内外条件からすれば「自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦(せんしんばんく)、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極(きょく)に至りて、

 始めて和を講ずるか、若(も)しくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可(べ)きものなり」と語り、これを痩我慢の説だと銘じた。

  ≪独立不羈の国民育成≫

 人間という存在は、他の生命体と同じくその根本においては私であり、個の私情こそが至上の価値をもつ。しかし外国に対する場合には必ずや同胞としての私情が湧出し、

 国民としての私情すなわちナショナリズムという「偏頗(へんぱ)心」が優位を占めなければならないと福澤は説く。

 私情といい偏頗心というからには普遍としての文明からは隔たる心理ではあるが、各国民が私情と偏頗心を露(あら)わにしている以上、自らもこれを重んじなければ国はもたないと主張する。

 福澤は好戦主義者ではない。学問を究めて高尚なる人間として「一身独立」し、もって「一国独立す」べきことを説き、「独立の気力なき者は、

 国を思ふこと深切(しんせつ)ならず」と論じて、独立不羈(ふき)の国民育成の緊急性を生涯にわたって主張しつづけた人物であった。

   

   現代の極東アジア地政学は幕末・維新期を再現させるかのごとくに剣呑(けんのん)な状況に入らんとしている。他国が自国の領域を平然と侵害する現状を拱手(きょうしゅ)傍観し、

集団的自衛権のあれほど限定的な行使容認までに異を唱えるというのであれば、福澤はその「文明の虚脱」に泉下で深い慨嘆の息を吐いているのに違いない。(わたなべ としお)

 

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  「一身独立」し、もって「一国独立す」という言葉こそ福沢諭吉翁の真骨頂です。これがために多大な尽力をアジアのために尽力しましたが、一向に答えてくれずさじを投げたのでしょう。道楽で尽力したのではありません。

 

 まず日本国が西欧に飲み込まれないための必死の努力でした。まさに国士とも言うべきです。見ていると茶番に見える民主党はじめ野党や反対しているシールズとかいう共産党の出先機関には付き合いきれません。

   

 

   歯がゆいくらい、安倍首相は忍耐強く、相手議員の罵倒にも耐えています。私心を持たない人ほど強い人はありません。今日の朝に至るも昨日の続きをだらだらやっています。韓国系日本人福山哲郎議員の邪魔でまた委員会は休憩に入りました。

 

 帰化をしたとは言え、日本に忠誠を誓っているのでしょうか。疑わしい限りです。

 


 ちょうど一年前に書いたものですが、変わらないと言えば変わらないし、変わったと言えば想像を超えているかもしれません。民進党がこれほど落ちぶれ。蓮舫氏が代表になるなど、誰が想像したでしょう。

 

 


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