阿波池田あるでないで・・・書家・たきぐち素水の風景

阿波池田の書道家「たきぐち素水」氏の風景を紹介します。阿波池田の街なかで、誰もが目にすることができる素水作品です。

第32話・・・箸蔵小学校の文部大臣表彰記念碑

2009年04月22日 | Weblog
 箸蔵小学校の前に、同校が文部大臣表彰を受賞した記念碑があります。
 この碑の題字も涔口先生によるものです。

 この小学校は、県立箸蔵自然公園内で昭和39年から愛鳥活動を続け
ています。永年の活動が認められ、昭和54年には文部大臣表彰を受け
ました。

 毎年、5月の愛鳥週間になると、同校の活動を紹介したニュースが新
聞やテレビで取り上げられます。自然に囲まれた地域ではありますが、
こうした機会を学校のスケジュールに取り入れ、永く続けることはそう
容易ではないと思われます。

 地域や学校のスタッフの方々の熱意が感じられる記念碑です。



        


 

 

第31話・・・板野の改田記念碑

2009年04月13日 | Weblog



                       

 池田町板野にある吉野川運動公園のプール下に「改田事業記念碑」があり
ます。題字は涔口先生によるものです。

 この碑には、昭和56年7月に建立されたと記され、昭和24年6月に結
成された板野水利組合によって板野の下島地区の改田事業を行ったことを讃
える文章が刻まれています。

 今は、池田ダムの湖畔となっていますが、昭和43年9月に水資源開発公
団による池田ダム建設により、この地に広がっていた水田が買収され、現在
の運動公園となりました。

第30話・・・阿波池田商工会議所婦人部会の創立記念碑

2009年04月10日 | Weblog
 阿波池田商工会議所婦人部会の創立を記念し、植樹を行った記念碑が2つあ
ります。
 一つは、平成3年に建てられた、創立10周年を記念したもの。もう一つは、
創立20周年を記念したもので、平成12年に建てられています。10周年の
碑は丸山公園に、そして20周年は諏訪公園にあって、いずれも涔口先生に依
頼して、記念碑の文字としています。


 池田の町は規模の小さな田舎町ですが、この規模で、商工会ではなく商工会
議所を設立(=昭和26年4月25日設立)して活動することは、全国的に見
ても珍しいようです。その中で、商業活動を支えてきた女性の皆さんのプライ
ドが垣間見える2つの碑です。


                         
                            ▲丸山公園にある10周年記念植樹の碑





▲諏訪公園の碑は20周年を記念したもの。
 「婦人部会」とするところが、「婦人会」となっている。

第29話・・・上野池南線の開通記念碑

2009年04月07日 | Weblog
 平成5年に開催された第48回東四国国体。この国体に合わせて開通した
上野池南線。
 開通記念碑が道路脇に設置されています。
記念碑には、涔口先生の字が青石に掘られ、白いペイントが入れられてい
ます。

                    

 東四国国体では、この年の3月に落成したばかりの総合体育館がレスリン
グ会場になりました。また、丸山公園を会場に山岳競技も開催されています。

 上野池南線が完成して、鉄道で分断されていた池南地区もずいぶん便利に
なりました。阿波池田駅のすぐ横にある踏切は、今も使われていますが、こ
の道路が開通して、大きな車もスムーズにこの地区に入ることができます。




                   
                               ▲JRをまたぐ上野池南線



 かっては、この道路を下った右側に古池という大きなため池がありました。
池田の地名の由来ともなった池で、846年に阿波の介となった山田古嗣と
いう人が農業振興のために整備した池であると伝えられています。当時はこ
のため池を利用して、池の東側にはかなりの水田が広がっていたと思われま
すが、鉄道の開通以降、阿波池田駅周辺には多くの住居が建ち、市街地に変
貌します。



  ▲埋め立てられた古池に総合体育館が建っています。



 昭和44年には池の東側の半分が埋め立てられ、昭和45年4月から船井
電機池田工場が操業しました。この工場は経営不振により昭和57年に閉鎖
されます。そして、平成5年3月に完成した総合体育館の用地として西側の
半分が埋め立てられ、現在は、岸の周りをコンクリートで固めた四角い、小
さな池が残っているだけとなっています。

 船井跡地の倍という大きな池を千年以上も前の人が作り、その用水を使っ
て、今は池田の町並みとなっているところ一帯に水田が広がっていたと思う
と、当時の人たちの知恵と努力にただ感心するばかりです。そう言えば、古
池の西の南の山すそに小さな泉が湧いていて、昭和40年頃までは、このあ
たりの人たちが洗い物をしたり、子供たちが喉を癒したりしていました。
 たばこの補償金で上水道を作った先人たちの思いや、この古池が池田に住
む人たちの生活を支えてきたことに思いを馳せると、現代の私たちの生き方
は正しいのだろうかと考えざるをえません。

第28話・・・池田高校にある甲子園優勝記念碑

2009年04月05日 | Weblog


 池田高校の正門を入ってグラウンドの方へ進むと、池田高校野球部の甲子園
優勝記念碑が3つ並んでいます。

 野球部の活躍は、今もなお、多くの人たちの記憶に残っていて、池田の人に
とっては飛び切りの自慢です。その野球部を率いてきた蔦文也先生の偉業や人
柄は高校野球ファンにも、この町にゆかりのある人にも、いつまでも忘れられ
ない池田物語です。

 甲子園で果たした3度の優勝はもちろんのこと、さわやかイレブンの活躍や
甲子園3連覇を逃したPL学園との試合など、蔦野球は不思議なほど全国の高
校野球ファンをひきつけました。








 この3つの優勝記念碑の内、2つが涔口先生の書です。
 1つは、畠山投手を擁して制した昭和57年の夏の大会。もう一つは水野投
手が活躍した翌58年の選抜大会の記念碑です。



 蔦先生のことは多くの方が書籍等で紹介していますので、今さらということ
になりますが、大正12年生まれ。監督就任20年目で甲子園初出場。30年
目に全国制覇。40年目に当たる平成4年3月、68歳で監督を退かれました。
甲子園での戦績は37勝11敗。「攻めだるま」と称され、多くの方に愛され
た野球人でした。
 全国制覇を成し得たことで、甲子園出場まで20年もかかったことも苦労話
として語られますが、野球を愛し続けたその生きざまが多くの方の共感を得た
のだと思います。





▲池田高校の入口を飾る蔦監督の碑




 11人で甲子園に出場したあの年も、北條坂を自転車を押しながら登ってい
く蔦先生の大きなオシリがありました。

   「おはようございます。」とあいさつすると、

   「オウ。チャンとしよんカァ?・・・。」

 何をちゃんとしろと言ってるのかわかりませんでしたが・・・。

 11人しか野球部員がいませんから、蔦先生はいつも一人でグラウンドキー
パーをやってました。朝早くからグラウンドに来て、マイカーだった自転車の
後ろに『トンボ』をくくりつけて内野を均すのです。雨で水たまりができると、
スポンジとバケツを持って、放課後の練習ができるように水抜きをやってまし
た。本当に野球が好きなんだなと思いました。


 夏の大会が近付く頃には、先生の顔は日焼けで黒光りし、大きな目がますま
す鋭くなっていきます。迫力ありました。



▲3度目の優勝記念碑は涔口先生の字ではありませんでした。

第27話・・・たばこ工場跡にある野口雨情の歌碑

2009年03月02日 | Weblog
 
                


 「刻み煙草ぢゃ池田が本場

        昔ながらの阿波刻み」・・・雨情


 日本たばこ池田工場跡の高速バスターミナルに野口雨情の歌碑があります。
 かって煙草の町として栄えた阿波池田の町を象徴する歌を雨情は残してく
れました。歌詞の部分は雨情本人の直筆で、歌碑の横書きの部分が涔口先生
の字です。昭和57年2月1日に池田町教育委員会が建立し、最初は、たば
こ工場の入口に設置されていましたが、現在のように街並みの姿も変わり、
雨情の歌碑もここに移されました。



 この歌だけでは、野口雨情という人がどういった人かよくわからないのですが、


  ◆「♪シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ・・・」
                      (シャボン玉)

  ◆「♪烏なぜ泣くの  烏は山に  可愛い七つの子があるからよ・・・」
                             (七つの子)

  ◆「♪赤い靴 はいてた 女の子。異人さんに連れられて行っちゃった・・・」
                        (赤い靴)

 となると、知っている方も多いと思います。

             
                   ◆涔口先生が書いた雨情の歌



 雨情は明治15年5月29日、茨城県の生まれ。大正から昭和にかけて、
数多くの童謡作品を発表し、北原白秋、西条八十とともに童謡界の三大詩人
といわれました。

 昭和11年2月、雨情は徳島県内を十九日間にわたって巡り歩き、たくさ
んの小唄を残しています。2月6日に徳島入りした雨情、池田町役場に到着
したのは2月13日のことでした。池田での滞在中、2日間で15節の「池
田小唄」を作っています。冒頭の唄は池田小唄の第10節目です。

 翌14日は箸蔵寺、16日には辻町へ足を運び、「箸蔵小唄」や「辻町小
唄」も作詞しています。

 野口雨情の阿波路での足跡は、吉野川市鴨島町の溝渕 匠さんが「阿波路
の雨情」、「続阿波路の雨情」の著書で詳しく書かれていて、そちらから引
用させていただきました。
 

 たばこ工場のあったこのあたりの風景もすっかり変わりました。
 以前は、池田の町で一番大きな工場としてたくさんの人が働いていました
が、平成2年3月に閉鎖され、平成19年夏、大型商業施設フレスポが開店
しました。

                    

第26話・・・阿波池田たばこ資料館

2009年03月02日 | Weblog

 


明治30年代は、池田の民営時代の煙草製造業の最盛期です。
 明治35年の徳島県統計によると、工員が10人以上の工場数は徳島県下
で134。この内、池田の工場が54とあります。徳島市をしのぐ県下一の
工業都市でした。

 第24話「阿波池田の酒まつり」で紹介した今小町酒造・中和商店も前身
は刻み煙草業で、北海道と大阪を中心に全国各地に販路を持ち、工員48人
をかかえる池田町最大の刻み屋さんでした。


 たばこで栄えた池田の歴史を残すため、本町通りの真鍋家を改装し、阿波
池田たばこ資料館が平成11年7月にオープンしました。入口は、商家のた
たずまいで、もちろん屋根の部分にはうだつがあがっています。

 時代を感じさせる玄関灯の上に、「阿波池田 うだつの家」の看板がかか
っています。涔口先生の字です。その左にかかっている「阿波池田たばこ資
料館」の看板は、涔口先生の字とは違うようです。


 中に入ると、昔ながらの店の間があり、その奥の建物が工場跡。工場跡を
利用し、煙草の資料館として当時を物語る展示がされています。入口から左
手に進むと離れがあり、趣のある中庭が残されています。




           


                                  

 池田町が刻み煙草製造で繁栄を極めていた時期、明治29年3月に「葉煙
草専売法」が公布されます。専売制度となったのは葉煙草だけで、刻み煙草
は従来通り製造販売できたのですが、専売所から葉煙草の割当配給を受ける
ため、特徴ある銘柄の製造ができなくなりました。この制度に対する当時の
刻み屋さんたちの不満は大きいものでした。この不満を解消するため、専売
所は池田と辻の刻み屋さんに対し、特別に葉煙草を払い下げることになりま
す。

 その利益は大きく、水不足で永年悩まされていた池田町を救うため、上水
道の建設費用に寄付されます。池田町の上水道は明治41年3月31日に完
成します。ヤマダの島山谷を水源に延長1666mが整備されました。
 当時の総工事費は35,940円で、寄付金は11,000円というもの
でした。上水道建設を全国の市町村の中でも12番目という、かなり早い時
期に整備できたのも煙草のおかげということです。
 ちなみに、全国で最初に近代水道として整備されたのは横浜市で、明治2
0年10月のことでした。


 明治37年に「煙草専売法」が公布され、煙草民製の時代は終わりをつげ
ます。

第25話・・・「郷土料理 うだつ」と真野武酒造

2009年03月02日 | Weblog


 今も「うだつ」の建物が残る本町通りに、昔ながらの酒蔵の面影を残す真野
武酒造があります。今も「阿波踊り」という銘柄で日本酒を出していますが、
平成8年12月から、郷土料理のお店に改装されて、昔の建物を活かした店づ
くりが目を引きます。


                     






 このお店の入口に掛けてある「郷土料理 うだつ」の看板は涔口先生の字
です。また、酒屋の方の入口に掛けられている「銘酒 阿波踊り」と「真野
武酒造株式会社」の看板も涔口先生によるものです。

        

                                   



 真野武酒造の前身は刻み煙草業でした。
 明治42年に酒造業に転じています。
 この店の名前にもなっている「うだつ(卯建)」は、池田の町が煙草業で
繁栄した歴史を語る証しとも言えます。もともとは、延焼を防ぐ防火壁とし
て工夫されたものですが、次第に装飾としての意味合いが増し、家の勢いを
誇示する象徴となりました。




                     

                   ◆吉野川の水運の姿を残す常夜灯

 阿波池田の町は、江戸時代から大正にかけて、吉野川を利用した水運と刻
み煙草で栄えます。諏訪神社下の千五百河原にあった「はまの港」と呼ばれ
る川港があって、平田舟という帆かけ舟で旅人や物資が往来しました。明治
9年の記録では、池田大西町に31艘、池田村に6艘の平田舟があり、谷町
には舟宿や舟問屋も多かったと池田町史に記されています。

 そして、本町通りには、煙草の刻み屋や刻み職人、旅籠、料亭、商家が集
まり、池田の中心部として栄えていました。明治初期の大西池田町の刻み煙
草商業の35戸は、全戸数が240戸しかない時代でしたから、特に目を引
く数字です。

  

第24話・・・阿波池田の酒まつりと今小町酒造・「穣」

2009年02月23日 | Weblog
 
              

            

 2月21日に四国酒まつりが開催されました。
 新酒のお披露目に因んだ催しで、池田の春の訪れを告げる風物詩です。
 阿波池田商工会議所の青年部の皆さんが企画し、今回で10回目を数えま
す。毎年、全国各地から日本酒ファンが集うイベントとして成長しました。
 この日は、地元の造り酒屋の「今小町」、「三芳菊」と井川町の「芳水」
の3つの酒蔵が一般開放され、今年の新酒を味わうことができます。



◆酒蔵で今年の酒を説明する中村盛彦社長は中和の6代目。


 
 池田町史によると、池田の酒づくりは江戸時代に遡り、松屋、頭師、喜多
屋の三家が酒造を行っていたようです。その後、明治二九年に三芳菊酒造、
明治三五年に入江酒造、明治三六年に大坂酒店、明治四二年に真野武酒造、
大正一五年に中和商店が酒造りをはじめます。酒造りの水はどちらも、桂林
寺の井戸水を使用していたそうです。

 大正期までの酒造りは、酒質も粗悪だったようですが、昭和になると各造
り酒屋が研鑽し、徳島県内の酒品評会で入賞の八割を占めるなど、徳島県内
の酒どころとしての名声を高めるようになります。時代とともに、廃業した
蔵もありますが、今日、一般開放した蔵元は、それぞれ全国各地にファンを
持ち、酒どころの名を現在に伝えています。
 
 酒造りの町として、若い人たちの手でこうしたイベントが続けられること
は、この町に住む者にとってもうれしい限りです。



 池田の酒の世界にも、涔口先生の字を見ることができます。
 今回も酒蔵開放を行った「今小町」中和商店が造っている『穣』のラベル
の字がそうです。




                   







 この『穣』は、今小町の純米大吟醸と純米吟醸に名づけられた名前です。
『穣』は、この蔵を任されている杜氏の上田穣(ゆたか)さんの名をとって
います。上田さんは、兵庫県但馬の方で毎年11月から3月まで、住み込み
でこの蔵の酒造りに携わり、今年で21年目になります。今小町の純米大吟
醸と純米吟醸にその名前が使われるほど、上田さんへの信頼と期待が大きい
のでしょう。


◆今小町で21年目の上田さん。
 さすがにこの日は笑顔が絶えません。

 
 ちなみに、涔口先生はビール党。今はあまり飲まれていないようですが、
子供のころの記憶では、先生の匂いは、墨と酒の匂いだったと思います。



 「先生、今も結構飲むン?」
 
            「いや、この頃は飲んみょらんゾ。」


 「お酒、結構いっきょったネエ?」

                
            「わしは、ビールが好きジャ・・・。ビール党。」

 

 
 

第23話・・・西山の密厳寺さん

2009年02月15日 | Weblog
 昨年12月の「蓮華寺」から2か月。なかなか話が進まないので、「次は
いつ更新するのか?」と声をかけていただき、申し訳ございません。冬の天
気の所為か、どうも写真が暗くなってしまうので、しばらくお休みさせてい
ただいていました。


 昨日の2月14日は、4月下旬並みの暖かさで、全国105の観測地点で
2月の最高気温を記録したそうですね。というわけで、今日も晴天を期待し
ていましたら、幸いにも昨日と同じ、ぽかぽか陽気となりました。活動開始
です。







                       



 池田の町の北側にある池田ダムを通り越し、西山を上っていくと、中腹に
「寶光山 密厳寺」があります。蓮華寺と同じく、真言宗御室派のお寺で、
蓮華寺とはちょうど向かい合わせのような場所にあるお寺です。

 しばらく来ない間に、境内は整備が進み、お寺の様子が変わっていました。
入口左手に、新しい鐘楼堂ができています。また、不動尊像を納める護摩
堂も建立される予定で、その案内看板が飾られていました。参拝に来られた
お遍路さんの姿を見ると、春の訪れを実感できます。

  
 
 このお寺の入口の景色が、結構好きです。
 いかにも山寺らしい石段と門があり、その前には、傾斜のかかった畑が広
がっています。漆喰壁の白がお寺の屋根とモノトーンの風景を作り、まわり
の緑の木々や畑の土色が素朴な空気を味わせてくれます。

                         


         


                        


 正面の入口にある門には、「四国36不動霊場第5番札所・阿波西国観音
霊場第22番札所」の看板と「寶光山 密厳寺」と書かれた看板が掛かって
います。どちらも、涔口先生の書です。

 そして、その門をくぐると本堂があり、本堂の軒に、「寶光山」と大書さ
れた欅の額が掲げられています。左隅に素水題とあります。

                   





                    





 このお寺の第25代住職をされている近藤靖典さん。お寺のお仕事のほか
にも、いろいろな社会活動を熱心に努められています。このお寺の横には、
ユースホステルがあり、近藤さんが運営されていますが、ここの入口の看板
も涔口先生による書で飾られています。この書は、カタカナということもあ
って、素水作品としては大変珍しいものだと思います。










                    


 10年ほど前に、池田の子供たちとPTA活動で1泊させていただいたこ
とがあります。お寺で過ごす1日は、子供たちには格別な時間だったようで、
体中でその空気を味わっていたことを思い出します。


 帰り道は、このお寺に来たご褒美に、吉野川と池田の町並みが眼下に見下
ろすことができます。

 空の色と流れる雲を映しだした吉野川はいいですね。