犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

日々是好日

2017-11-05 23:55:10 | 日記

澄み切った青空のところどころに鱗雲が浮かんで、「天高く」とはこのことを言うのだと、今更ながらに感じます。
茶席の床の間には「日々是好日」の軸がかけられていました。
うららかな佳日をたたえる言葉のようにも見えますが、禅語のもともとの意味は違います。
「好日」か「不好日」かの区別には意味がない。そのような区別は「自分」にとっての損得勘定にとらわれた考え方なのだ。わたしたちは、「自分」というものから自由になって、日々を分けへだてなく迎えなければならない。碧眼録の雲門禅師の教えはそのようなものでした。しかし「好日」と「不好日」の区別をなくすだけならば、敢えて毎日を「好日」と呼ぶこともないはずです。

「自分」から自由になることについて、次のようにも考えてみました。
心安んじて「日々是好日」という言葉を受け入れられる日もあれば、つらい出来事が続いて「日々是悪日」だと愚痴を言いたくなる日もあります。「日々是好日」の掛軸にひとりで向き合うのならば、その言葉を受け入れやすい気分の、心安らかな日に眺めていればよいのかもしれない。つらい日には心安らかな日と同じ心持ちでいようと自戒すればよいのですから。
しかし、茶会の掛軸のメッセージは、そういうものとは違います。
お茶会に集った人々は様々な人生を抱えており、掛軸の禅語はそれらすべての人々に等しく向けられています。それが本日、茶会に集ったすべての人のテーマなのです。
客のなかには、大きな苦しみを抱えている人もいるかもしれません。心安らかに「好日」を受け入れられる人と同じように、むしろ苦悩の中にある人こそが、今日という日を「好日」として受け入れよう、そういう心構えを指しているのではないか。また、そのような心構えでこの場に望む人を、慮る人の気持ちをも指しているのではないか。
これが、決してひとりでは完結しない、茶会の醍醐味なのかもしれません。
そう考えれば、「日々是好日」は「ああ、よい日だ」という述懐ではなく、こんなに辛い毎日だけれど「それでも良き日にしよう」という決意の言葉になりうると思います。

以前に、心理学者の河合隼雄さんが「絵に描いた餅」について語ったところに触れました。そのなかで河合さんは、自分の理想が「絵に描いた餅」でしかないと覚めた眼で見ることと、それでも「絵に描いた餅」を人生にとって切実なものとして感じることの両方の大切さを述べています。
道元禅師の『正法眼蔵』にも「画餅」という巻があり、河合さんはそれをモチーフにしているのだと思います。禅師は「画餅」をニセモノとし、本物の餅とは区別する態度を否定します。ニセモノと区別される確かな本物があって、本物のみを追求しようとするところに「苦」が生まれると、禅師は説くのです。
そして、本物もニセモノも区別がないと言ってシニカルに構えるのではなく、それでも「画餅」を良きものとして選択する決意のあり方を、禅師は説いています。
鎌倉時代の仏教書のほとんどが漢文で記されていたにもかかわらず、『正法眼蔵』は日本語かつ仮名で記されています。深淵な思想を特定の人に伝授するのではなく、さあ、あなたはどう生きるのか、読む者にそう尋ねる書として生まれたのだと思います。
そして「画餅」と「本物の餅」の区別はないという思弁の世界に留まるのではなく、それでも良く生きなさいと、わたしたちは教えられます。

「好日」と「不好日」の区別などないと取り澄まして語るのではなく、悩み多き人こそ、今日を「好日」として受け入れなさいと語りかけるような、それは実践的な語りかけなのだと思います。


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