犀のように歩め

汝自身に対して灯火となれ、自分の角を道しるべとして歩む犀に、釈迦はそのような思いを重ねたそうです。

目の見えない人は世界をどう見ているのか

2017-07-16 23:56:53 | 日記

少壮の美学研究者によって著された『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗著 光文社新書) は、視覚障害者との関係のあり方について優れた知見をもたらします。のみならず、本書は我々の認識を変換させることによって、ようやく辿り着ける地平を指し示す、愉悦の書でもあります。
目が見えるとはどういうことか、目を含めた「器官」を通して生きるとはどういうことか、器官に縛られずに他者との関係を築くことは可能なのか、といったことに腑に落ちるような説明を加えながら、著者は論を進めます。
ちなみに「障害」の表記を、著者は「障がい」や「障碍」とすることはありません。理由は本書に詳述されていますが、「障害」は個人にではなく、社会に帰属するのだと著者は考えています。

著者は、生物学者ユクスキュルの「環世界」を引いて「情報」と「意味」との差異を確認します。

初夏、キャベツ畑にモンシロチョウが飛んでいます。しかし時間帯によって、モンシロチョウにとってのキャベツ畑の見え方は違います。午前中は交尾の時間帯です。(中略) オスは、交尾の相手を求めてキャベツ畑を飛び回っています。 実際にはあたりに葉や花が存在しているのですが、全く目もくれません。ところが午後になると、空腹になるのでしょう、モンシロチョウたちは今度は花の蜜を求めるようになります。急に、花が「見え始める」のです。(前掲著より)

ユクスキュルによれば、モンシロチョウに限らず、生物は周りの事物に意味を与えることによって、自分にとっての世界を構成しており、この「自分にとっての世界」を彼は「環世界」と呼んでいます。
「自分にとっての世界」は生きるために必要なイリュージョンなのでしょうが、生きるものにとっては切実な何ものか、言い換えれば「意味」の世界です。この「意味」の世界とは別に、蜜をたくさん含んだ花がどの辺りに分布しているかを、我々は「情報」として扱うことができます。

我々が視覚障害者と接する際に、その視覚の欠如を補うために必要な「情報」を与えようとするあまり「意味」の世界を置き去りにしていないか、というのが著者の最初の問いかけです。目の見える人が見えない人に必要な情報を与え、サポートしてあげる。それを「福祉的な視点」と呼ぶならば、日々の生活のなかで障害を持つ人と、そうでない人との関係が、福祉的な視点に限定されてしまっていないかというのです。
視覚障害者にとっての「意味」の世界とは、まさに本書のタイトルである「目が見えない人は世界をどう見ているのか」です。著者の比喩を用いると、もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいますが、三本脚で立っている椅子もある。ちょっと重心を変えて脚を配置するだけで、脚は充分に機能して椅子としての用途を全うするのです。著者はちゃんと機能している3本の脚と自分の4本の脚の働き方とを置き換えて考えてみることで、椅子としての用途を全うする「意味」の世界に入っていけるはずだと語ります。

ここで付け加えなければならないことは、著者はある種の相対主義に身を置いて、高みからものを語ることに対して禁欲的な立場を貫いています。具体的な経験や研究結果から離れて空論を展開することはありません。

例えば、目の見える人がいかに「文化的フィルター」を通してしか、ものを見ることができていないか。視覚障害者にとって富士山は円錐の上部が欠けた構造という三次元の形であるのに対して、目の見える人は数多く描かれた富士山図のステレオタイプや、末広がりという言葉を誘発する「八」の字の二次元の図を思い描きます。
また視覚障害者には、前・後や表・裏といった「視点」が存在するが故の対象の「ヒエラルキー」がありません。粘土細工で壺を作る視覚障がい者の子供は、粘土で作った壺の中に一生懸命に細工をするのだそうです。目の見える人にとって、見えない「裏側」「内側」は存在しないのも同然でしょう。

こうしてみると視覚が無いために文化的フィルターからの自由度が高いとも言い得るでしょうし、自分の認識が視覚を補うための教育などの制限を受けているという自覚があることも、目の見える人との差異と言えるでしょう。
認識を築きあげるために必要な「制度」に対する自覚があるという点において、視覚障害者は、ものの認識においてメタレベルに立ちうるのかもしれない。そんなことも考えさせられます。

話をもとに戻しましょう。本書の真骨頂は抽象論から遠く離れた所にあるのでした。
本書の、もっとも心を打つ記述は、視覚障害者が世の中と折り合いをつけてゆくために身につけた「ユーモア」についてです。
視覚が無いことによって受ける不利益に対して、正面から異議申し立てをするのではなく、自らを笑って見せるという、その佇まいを著者は特に取り上げます。見えないことによる自由度の減少を、ハプニングの増大として受け入れ、周囲に対しても困難な状況をポジティブに伝える態度です。
レトルトのパスタソースのパッケージはどれも同じ形状をしているので、障害者はそれを口にするまで何味なのかが分かりません。回転寿司に行ってお皿をとっても同じです。それをゲームやおみくじ装置として楽しみ、愉快に伝える姿が描かれています。
フロイトは、ユーモアの秘密は視点の移動にあると言いました。現実が自分を苦しめようとしているけれども、そんな状況をものともせず、「世の中そんなものさ」とユーモアは笑いとばすのです。

生物学者を志していた著者は、自分ではない体に変身することを生物学を通して体感しようとしていました。自らの器官、それがたまたま眼という器官ならば、その器官の囚われから自由になって、変身することを著者は提案します。
自分を笑い飛ばすことのできる強さを生み出すものは、ほかならぬ囚われからの自由なのです。

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