ピサロの軍はサーニャから太平洋沿いに南進するのではなく困難な山岳地帯であるカハマルカの攻略に挑む。遂にクスコに至るのはそこから丁度365日後の1533年11月15日である。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:04
時のインカ帝国アタワルパというのは王朝の皇帝でもあり卑弥呼のような存在であろう。まず口もきけぬ高貴な身である。レケリミエントを通告するスペイン人神父にお前達が盗んだものを全て返還するまでここを動かないと宣言。直ちにピサロのサンティアゴの掛け声により30分で2000人が殺された。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:18
ピサロがアタワルパを輿から引きずり出すことが出来なかったのは殺されても殺されても、代わりの者が引き継いだためだった。この日殺されたインカ人はおよそ8000である。ピサロに関していうなら彼は文字が書けなかったから常に秘書を連れていたので数字に関しては信憑性がある。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:24
その後もアタワルパとのやり取りは記録にしてアタワルパが命と引き換えにピサロの部屋を金で一杯にし屋敷の二倍の銀で満たそうという懇願が証拠に残している。この約束を果たす為ペルー全土から黄金が運ばれた。それはピサロを満足させる量であったが助命の約束まではしていないと書記官にも確認。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:33
1533年7月26日アタワルパは広場に引きずり出され処刑された。キリスト教に改宗する見返りとして火刑ではなく絞首刑となる(インカでは火刑でなければ父の太陽が復活させてくれると信じていたようだ)アタワルパの洗礼名はフランシスコである。ピサロはそこだけは約束を守ったのである。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:39
まだクスコが落ちたわけではない。インカにはキスキスという武人がいたがインカにはピサロによる皇帝が必要である。しかしチャルクチマには火刑が宣告され改宗を迫られたがスペイン人の神は理解できないと言ってキスキスの名を呼びながら死んでいった。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:45
スペイン人が欲したのはあくまで黄金である。インカの主な王はアンデス東山脈の僻地で捕らえられアタワルパの宝の残りがどこにあるか恐ろしい拷問を受けたのち全員火刑に処された。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:50
クスコを陥落させたピサロは莫大な富を獲得しスペイン国王からペルー総督軍事総司令官と公爵の地位を与えられて63歳で没する。ピサロの子孫は公爵の位を受け継ぎ現在まで承継されている。
— E.J.ワダチ (@Buster_limit) 2017年6月21日 - 23:57
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