全編ネタバレです

タイムとのインタビューでスピルバーグはウッディ・アレンの「スターダスト・メモリー」を引き合いに出して自分の立場を話した。「スターダスト・メモリー」の1シーン。高IQの宇宙人が出てきて生の意味を問うウッディ・アレンをこう励ます。「ぼくたちはきみの映画が好きだよ。特に初期の面白いやつが」
スピルバーグに対する周囲の反応はまさにそうだ、と言う。なぜ、初期の「ジョーズ」や「インディ・ジョーンズ」みたいなやつを作らないのか、と。そっちの方が面白かったのに、と。
「ミュンヘン」もスピルバーグの路線で言えば「ジョーズ」や「インディ・ジョーンズ」とは異なる、「シンドラーのリスト」などの延長上にあると言えるだろう。
だからといって、ぼくらのイメージするスピルバーグのものとまったく違う手法で描かれた作品だとは思わない。一人目の殺人。殺される前に彼に買い物をさせる。牛乳、赤ワイン。エレベーターの前で撃たれて倒れる。瓶の割れる音。赤と白の液体がゆっくりきれいな対比を作りながら流れ出してくる。この演出はまさにスピルバーグならではの、あざとさと言ってもいいかもしれない。
増感処理などで荒く描かれた映像や、最初のパリのシーンで特徴的なハイライトを飛ばして主人公とルイを非現実的な感じに浮かび上がらせた手法などスピルバーグらしいところが随所にある。
殺人と食事(それもとびきりうまそうな)とがきれいなコントラストを描いているところもそうだ。最初の顔合わせでの食事、三人目を爆死させたあとの食事、オランダで女を殺したあとの食事。身を養い、味覚という人間的快楽に根ざした食事とその正反対にある殺人とを並べることによって、スピルバーグは何かを表現しようと思ったに違いない。それが見ている側にどう伝わるかは別にして。
食事と同様、セックスもこの作品では殺人と対比される。ミュンヘン事件の悲惨な状況を思いつつ繰り返される律動運動に、セックスの愉悦や快楽は息を潜め、むしろ今までの行為のざらざらしたむなしさを感じさせるかのようだ。エロティシズムのない性行為。したがって、そこに生を感じることができない。
この映画を途中まで牽引していくのは、銀行強盗の映画に似た力だ。強盗の善し悪しはひとまず考慮からはずし、見ているものは成功するかしないかハラハラしながら見つめていく。アラン・ドロンはちゃんとジャン・ギャバンの言うことを聞くだろうか、うまくいくだろうか?
ミュンヘン事件の関与者に対する報復も、それがどう成功するか、見ている側はハラハラしながら見守っている。映画を見ながら、報復の是非について判断を保留している自分に気づいて驚いた。このまま関心を道連れに映画が終われば、それは多くのことを切り捨てた娯楽らしくない娯楽映画なのだろうが、この映画はその関心を途中で引きちぎり、死相が現れたかのような主人公の表情を描写しはじめる。追うものを見続けたスリルは、いつしか追う者が追われる者となったときに、その高揚感のしっぺ返しを受ける。
ただ気づいた点が一つ。11人の人質が亡くなったミュンヘン事件を執拗なまでに描写する一方、その報復爆撃で60人が死んだことは数字が述べられるだけだ。印象はきわめて薄い。さらにその報復の拡大で200人のアラブ人が死んだことも数字だけ。無名であることは恐ろしいことね、とヴィエトナム戦争のニュース映画を見ながら言ったアンナ・カリーナのセリフを思い出す(「気狂いピエロ」)。ただ数字で呼ばれるだけ、と。
数字で呼ばれるのは、彼らが制服を着ているからだ。なにも軍服だけが制服ではない。民族に固執することはその民族としての制服を身にまとっていることに他ならない。黒い9月はワインバーガーを殺害しようと思ったわけではない。彼らはイスラエル人を襲撃したのだ。それと同じことで、イスラエルも彼らがパレスチナ人だから爆撃したのだ。戦争の制服もそう。ウィスコンシン州のジョンさんを殺すことはできないが、鬼畜米英は殺すことができる。長野県で子どもが2人いる木村三郎さんは殺せなくても、JAPなら殺せる。木村三郎さんは、だが、かけがいのない木村三郎さんなのだ。日本人だから、大和民族(そういうものがある、と言われた時代もあった)だからではなく、木村三郎さんとして生きて死ぬただ一人の人間なのだ。制服をまとった瞬間、しかし、木村三郎さんはただの数字になる。
アテネでPLOと鉢合わせする彼ら。敵同士が一晩語りあう。そのとき、彼はPLOゲリラではなく、アリになる。オリンピックホテルのバルコニーで標的と話をする。話をすることで標的は人になる。それでも彼らは殺す。
そうして彼らは平和を得ることができたのか?
なんとも救いのない結末。そう、簡単に救いなどない。だから現実に今多くの人間が苦しんでいるのだ。この救いのなさがこの映画の良心と言えるかもしれない。
映画の本筋とは関係ないが、シトロエンのDSが出てきた! ギャビン・ライアルの「深夜プラスワン」で大活躍、ロラン・バルトが、DS(デエス)は女神
(déesseデエス)だ、と言ったDS。「ジャッカルの日」ではド・ゴール大統領の公用車として出てきた。うーん、姿を見るだけで眼福ですわ。

タイムとのインタビューでスピルバーグはウッディ・アレンの「スターダスト・メモリー」を引き合いに出して自分の立場を話した。「スターダスト・メモリー」の1シーン。高IQの宇宙人が出てきて生の意味を問うウッディ・アレンをこう励ます。「ぼくたちはきみの映画が好きだよ。特に初期の面白いやつが」
スピルバーグに対する周囲の反応はまさにそうだ、と言う。なぜ、初期の「ジョーズ」や「インディ・ジョーンズ」みたいなやつを作らないのか、と。そっちの方が面白かったのに、と。
「ミュンヘン」もスピルバーグの路線で言えば「ジョーズ」や「インディ・ジョーンズ」とは異なる、「シンドラーのリスト」などの延長上にあると言えるだろう。
だからといって、ぼくらのイメージするスピルバーグのものとまったく違う手法で描かれた作品だとは思わない。一人目の殺人。殺される前に彼に買い物をさせる。牛乳、赤ワイン。エレベーターの前で撃たれて倒れる。瓶の割れる音。赤と白の液体がゆっくりきれいな対比を作りながら流れ出してくる。この演出はまさにスピルバーグならではの、あざとさと言ってもいいかもしれない。
増感処理などで荒く描かれた映像や、最初のパリのシーンで特徴的なハイライトを飛ばして主人公とルイを非現実的な感じに浮かび上がらせた手法などスピルバーグらしいところが随所にある。
殺人と食事(それもとびきりうまそうな)とがきれいなコントラストを描いているところもそうだ。最初の顔合わせでの食事、三人目を爆死させたあとの食事、オランダで女を殺したあとの食事。身を養い、味覚という人間的快楽に根ざした食事とその正反対にある殺人とを並べることによって、スピルバーグは何かを表現しようと思ったに違いない。それが見ている側にどう伝わるかは別にして。
食事と同様、セックスもこの作品では殺人と対比される。ミュンヘン事件の悲惨な状況を思いつつ繰り返される律動運動に、セックスの愉悦や快楽は息を潜め、むしろ今までの行為のざらざらしたむなしさを感じさせるかのようだ。エロティシズムのない性行為。したがって、そこに生を感じることができない。
この映画を途中まで牽引していくのは、銀行強盗の映画に似た力だ。強盗の善し悪しはひとまず考慮からはずし、見ているものは成功するかしないかハラハラしながら見つめていく。アラン・ドロンはちゃんとジャン・ギャバンの言うことを聞くだろうか、うまくいくだろうか?
ミュンヘン事件の関与者に対する報復も、それがどう成功するか、見ている側はハラハラしながら見守っている。映画を見ながら、報復の是非について判断を保留している自分に気づいて驚いた。このまま関心を道連れに映画が終われば、それは多くのことを切り捨てた娯楽らしくない娯楽映画なのだろうが、この映画はその関心を途中で引きちぎり、死相が現れたかのような主人公の表情を描写しはじめる。追うものを見続けたスリルは、いつしか追う者が追われる者となったときに、その高揚感のしっぺ返しを受ける。
ただ気づいた点が一つ。11人の人質が亡くなったミュンヘン事件を執拗なまでに描写する一方、その報復爆撃で60人が死んだことは数字が述べられるだけだ。印象はきわめて薄い。さらにその報復の拡大で200人のアラブ人が死んだことも数字だけ。無名であることは恐ろしいことね、とヴィエトナム戦争のニュース映画を見ながら言ったアンナ・カリーナのセリフを思い出す(「気狂いピエロ」)。ただ数字で呼ばれるだけ、と。
数字で呼ばれるのは、彼らが制服を着ているからだ。なにも軍服だけが制服ではない。民族に固執することはその民族としての制服を身にまとっていることに他ならない。黒い9月はワインバーガーを殺害しようと思ったわけではない。彼らはイスラエル人を襲撃したのだ。それと同じことで、イスラエルも彼らがパレスチナ人だから爆撃したのだ。戦争の制服もそう。ウィスコンシン州のジョンさんを殺すことはできないが、鬼畜米英は殺すことができる。長野県で子どもが2人いる木村三郎さんは殺せなくても、JAPなら殺せる。木村三郎さんは、だが、かけがいのない木村三郎さんなのだ。日本人だから、大和民族(そういうものがある、と言われた時代もあった)だからではなく、木村三郎さんとして生きて死ぬただ一人の人間なのだ。制服をまとった瞬間、しかし、木村三郎さんはただの数字になる。
アテネでPLOと鉢合わせする彼ら。敵同士が一晩語りあう。そのとき、彼はPLOゲリラではなく、アリになる。オリンピックホテルのバルコニーで標的と話をする。話をすることで標的は人になる。それでも彼らは殺す。
そうして彼らは平和を得ることができたのか?
なんとも救いのない結末。そう、簡単に救いなどない。だから現実に今多くの人間が苦しんでいるのだ。この救いのなさがこの映画の良心と言えるかもしれない。
映画の本筋とは関係ないが、シトロエンのDSが出てきた! ギャビン・ライアルの「深夜プラスワン」で大活躍、ロラン・バルトが、DS(デエス)は女神
(déesseデエス)だ、と言ったDS。「ジャッカルの日」ではド・ゴール大統領の公用車として出てきた。うーん、姿を見るだけで眼福ですわ。












