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サルトルの世紀

2006年02月10日 07時23分56秒 | 読書
 ベルナール・アンリ・レヴィ(BHL)がサルトルについて書く。これにあまり触手が伸びなかったのは、昔の恋人について他人に悪口を言われることが(その悪口は正しいかもしれないし、自分でもそう思うにしても)、面白くないという気分に似ている。
 そう、ぼくはサルトルが大好きだったのだ。中学生のとき夢中になって、明けても暮れてもサルトル。サルトルはぼくのヒーローだったのだ(もう一人のヒーローがウッディ・アレンだとは、なんだか眼鏡の小男好きみたいだが)。
 しかし、ここで描かれているサルトルの姿は驚くほど賞賛されている。
 サルトルだけではない。カストール(ボーヴォワール)のこと。そして二人のこと。
 「いったいどうして、こうしたこと一切を理解するのに人々はこれほど苦労するのか?
 二十世紀が知った、もっとも奇妙なラヴ・ストーリィの一つかもしれないが、同時にもっとも麗しいラヴ・ストーリィの一つでもあるものを、どうして人々はかくも執拗に戯画化し、滑稽化し、矮小化することに血道をあげるのか?」
 実際サルトルは間違わなかったか?
 いや、やはり個々の事象について彼は間違いを犯しただろう。
 それについて厳しい批判を繰り返していたBHLが、なぜここにきてこれまでのサルトル礼賛を繰り広げるのか。
 われわれが考えているサルトルは「実存主義はヒューマニズム(ユマニスム)である」という講演に見られるように、ユマニストとしてのサルトルであるが、BHLは「嘔吐」や「存在と無」などの読解から反ユマニストとしてのサルトルを評価する。BHLによれば、ユマニスムは現実の人間を、よりよい存在にしようとする考え方で、その帰着がときに強制収容所であったり、思想の弾圧、大量虐殺につながるという(これこそ彼の言う「人間の顔をした野蛮」だ)。したがって、そうした読解から見られる反ユマニストのサルトルはよい存在なのだ。ここが今回BHLがサルトルを大きく評価する点である。
 しかしその一方、共同体思想を持つ悪しきサルトルが存在した、とも言う。その悪しきサルトルと良きサルトルの相反が、ソ連賛美やマオ派の若者への支持という矛盾した行動をとらせることになった、と言う。
 アパルトマンをOASに爆破されたりしながらも、常に人々の先頭に立ち、人々に愛されたサルトルが、構造主義の時代、批判すらされることなく忘れ去られたような観があったが、ここにきてまた新たな評価が生まれる機運が起きている。
 この本がそのきっかけの一つとなったことは確かで、その意味でも大きな役割をもった本と言っていいかもしれない。
 また、ときとして彼の「ほら、どうだ、ぼくの文ってすごいだろ?」というところが鼻につかなくもないが、確かにそのダイナミックで生き生きとした文章は、邦訳900ページの本を一気に読ませるリズムを持っている。サルトルをこれから読んでみようかと思う向きにもお勧めだ。

 P.S.ぼくがここで言っているユマニスムは、渡辺一夫が言うユマニスムとは異なっていると思う。渡辺一夫が言うユマニスムは狂信の時代に、人が生きる上できわめて大切な概念だと思う。

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