あぜ道日記

田舎暮らしの中で、自然や季節の花々、時々お出かけを、写真で綴ります。

近代建築(北区編)後編

2017年06月14日 | まち歩き

旧古河邸から10分ほど歩いて、飛鳥山公園につきました。
飛鳥山公園は八代将軍、徳川吉宗が江戸庶民の行楽地として飛鳥山に千本以上の桜を植樹しました。
以降、現在に至るまで桜の名所として親しまれています。

その公園の一角に渋沢栄一に関する古い建物や資料館があります。
渋沢栄一は1840年埼玉県深谷市に生まれました。
農業、商業を営む家業を手伝うかたわら、尊王攘夷思想に傾倒しました。
1867年にパリ万博の幕府使節の一員として渡仏し、ヨーロッパの文明に触れ感銘を受けました。
帰国してからはその経験を生かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社、銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交、社会公共事業に取り組み、近代日本の経済社会の基礎を作りました。
そういえば朝ドラ「朝が来た」で三宅裕司が渋沢栄一役で出演して、あさに商売のことを教えていました。
それに日本女子大の設立にも貢献したそうです。

渋沢栄一に関する豆知識を得たところで、栄一は1879年に飛鳥山の地に賓客接待用の別邸を構えました。
以後庭園内を整備し、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設しました。
1901年からは飛鳥山の邸宅に移り住み91歳で亡くなるまで本邸として使用しました。
空襲で多くの建物を焼失しましたが、青淵文庫、晩香蘆など一部現存し公開されています。

解説が長くなりましたが、ようやく青淵文庫です。
この建物は大正14年に竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団)が、渋沢栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いに贈りました。
完成目前に関東大震災が起き、収蔵する予定だった多くの書籍が焼失したため、竣工後は主に接客の場として使用されました。









「青淵(せいえん)」の由来は深谷市の渋沢栄一が住んでいた家の下に淵があり、「淵上小屋」と呼ばれていたことから、従兄の尾高惇忠によって付けられました。
この文字は栄一の揮毫によるものです。
撮影OKだったので室内の写真を撮りました。









閲覧室の窓のステンドグラスが目に入ります。









渋沢家の家紋をモチーフにし柏の中央には「壽」の飾り文字、文字の周辺にはどんぐり、唐草、雲などが見えます。
カーテンの陰には竜門社の名前にちなんで竜がいます









じゅうたんにも「壽」の文字とコウモリの図柄。









これは大理石で囲まれた電気ストーブです。









渋沢家の家紋をモチーフにしたタイルが貼られています。









テラスにも「壽」の文字がありました。









晩香蘆(ばんこうろ)は1917年に栄一の喜寿を祝って、清水組より贈られた洋風茶室です。
渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。









内部は撮影できなかったので玄関までです。









庭に渋沢栄一の像がありました。





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