パネルディスカッション『4・24教育闘争から60年』
タルオルムの劇を見終わった人たちは階下に移り、およそ2時間あまりパネルディスカッションに参加しました。実行委員長の仲尾宏さんの挨拶に始まり、支える会・ウリハッキョ上映会実行委・FACEProjectから朝鮮学校への寄附があり、三者から報告がありました。
・洪祥進さん(朝鮮人強制連行真相調査団)
・松下佳弘さん(世界人権問題研究センター嘱託研究員)
・朴道済さん(教育闘争当時の小学生)
途中、当時の小学校5・6年生だったハルモニたちが書いた文章を、滋賀朝鮮初級学校の6年生が読み上げてくれました。あっという間の2時間でもっとお話を聞きたかったという印象が残りました。
洪さんは教育闘争の歴史的な位置づけを話してくれました。「在日朝鮮人にとってのこの100年で大きな2つの出来事は・・・」と切り出し、「関東大震災と阪神教育闘争だ!!」と終始力のこもったお話でした。山口県からはじまった教育闘争には全国でのべ10万人の朝鮮人が参加したそうで、4月24日の兵庫でGHQの指示した閉鎖令を撤回させるに至ったのは相当な運動だったことがわかりました。特に4月3日には済州島で米軍支配に対する民衆蜂起が起きていて、統一か分断かが問われていた時期でした。といっても教育闘争は平和的な運動だったと当時の写真を見せながら解説してくれました。県庁舎前に整然と並んで要求を唱える、そんな運動に対して発砲し暴力をふるったのは日本の警察のほうだったのです。文部省が48年1月24日に出した通達「朝鮮人学校の取扱について」は朝鮮人の民族性を奪い、子どもたちを日本学校に強制的に移すもので、ジェノサイドにあたるとも指摘されました。49年に再び学校閉鎖に追い込まれた後、子どもたちの8割にあたる4万人が日本学校に編入させられたのです。ジェノサイド条約第2条でジェノサイドの定義は、(b)集団構成員に対して重大な肉体的または精神的危害を加えること、(e)集団の児童を他の集団へ強制的に移すこと、とあります。65年通達をはじめ、今日の朝鮮学校に対する処遇の問題は、48年通達の思想を踏襲していて、これは実は国際法ではジェノサイドにあたるのだと教えてくれました。現在日本はこの条約を批准していませんが、洪さんたちはこの条約を根拠に日弁連に人権救済申し立てをしています。
松下さんは京都の朝鮮学校の状況を詳しく話してくれました。48年当時の京都には、
・朝から授業をしていた学校が8校
・放課後または夜間に授業をしていた学校が14校
・教会夜間学校が1校
あったということです。西陣小学校と京都第一朝連初等学校(京都七条朝連国民学院)が大きくて、西陣小では子ども300人と先生10人が学んでいたそうです。第一朝連初等学校は陶化小学校内の特別学級でしたが、陶化小の児童600人中に朝鮮人児童は200人いたそうです。48年に1・24通達が出され教育闘争がおこなわれた後、京都では7校が学校設置認可を受け、9校で特別学級が設置されました。9月までに府が認定した朝鮮人教職員も44人確認されているそうです。
しかし、翌49年の4月から再び市教委は学校明け渡しを迫りはじめ、5月には京都軍政部の意向をうけて府教委が特別学級を不認可にしてしまい、市教委も9月には陶化小の特別学級を閉鎖すると言い出し、月末になると京都第一朝連初等学校を強制封鎖したのです。そのため11月からは、木造アパートの一部を借りて、京都第一朝鮮人学校の自主運営が始まっていくのです。これが今日の京都朝鮮第一初級学校の前身となっています。西陣小学校も50年3月の卒業式まで持ちこたえますが閉鎖され、在校生の多くは日本学校へ編入させられていきます。この学校閉鎖の過程で、京都府知事は文部大臣の認可を受けた財団法人学校をつくることをほのめかしたそうですが、国は財団法人京都朝鮮学園と財団法人大韓民国京都教育会が合併すれば考えると言い出したそうです。結局は無理な話を出しておいて不認可にしたのです。南北分断につけこんで民族教育権をもてあそぶやり口に、戦前の植民地支配と変わらぬ日本の統治姿勢があらわれています。 ソルタン記
つづく。
タルオルムの劇を見終わった人たちは階下に移り、およそ2時間あまりパネルディスカッションに参加しました。実行委員長の仲尾宏さんの挨拶に始まり、支える会・ウリハッキョ上映会実行委・FACEProjectから朝鮮学校への寄附があり、三者から報告がありました。
・洪祥進さん(朝鮮人強制連行真相調査団)
・松下佳弘さん(世界人権問題研究センター嘱託研究員)
・朴道済さん(教育闘争当時の小学生)
途中、当時の小学校5・6年生だったハルモニたちが書いた文章を、滋賀朝鮮初級学校の6年生が読み上げてくれました。あっという間の2時間でもっとお話を聞きたかったという印象が残りました。
洪さんは教育闘争の歴史的な位置づけを話してくれました。「在日朝鮮人にとってのこの100年で大きな2つの出来事は・・・」と切り出し、「関東大震災と阪神教育闘争だ!!」と終始力のこもったお話でした。山口県からはじまった教育闘争には全国でのべ10万人の朝鮮人が参加したそうで、4月24日の兵庫でGHQの指示した閉鎖令を撤回させるに至ったのは相当な運動だったことがわかりました。特に4月3日には済州島で米軍支配に対する民衆蜂起が起きていて、統一か分断かが問われていた時期でした。といっても教育闘争は平和的な運動だったと当時の写真を見せながら解説してくれました。県庁舎前に整然と並んで要求を唱える、そんな運動に対して発砲し暴力をふるったのは日本の警察のほうだったのです。文部省が48年1月24日に出した通達「朝鮮人学校の取扱について」は朝鮮人の民族性を奪い、子どもたちを日本学校に強制的に移すもので、ジェノサイドにあたるとも指摘されました。49年に再び学校閉鎖に追い込まれた後、子どもたちの8割にあたる4万人が日本学校に編入させられたのです。ジェノサイド条約第2条でジェノサイドの定義は、(b)集団構成員に対して重大な肉体的または精神的危害を加えること、(e)集団の児童を他の集団へ強制的に移すこと、とあります。65年通達をはじめ、今日の朝鮮学校に対する処遇の問題は、48年通達の思想を踏襲していて、これは実は国際法ではジェノサイドにあたるのだと教えてくれました。現在日本はこの条約を批准していませんが、洪さんたちはこの条約を根拠に日弁連に人権救済申し立てをしています。
松下さんは京都の朝鮮学校の状況を詳しく話してくれました。48年当時の京都には、
・朝から授業をしていた学校が8校
・放課後または夜間に授業をしていた学校が14校
・教会夜間学校が1校
あったということです。西陣小学校と京都第一朝連初等学校(京都七条朝連国民学院)が大きくて、西陣小では子ども300人と先生10人が学んでいたそうです。第一朝連初等学校は陶化小学校内の特別学級でしたが、陶化小の児童600人中に朝鮮人児童は200人いたそうです。48年に1・24通達が出され教育闘争がおこなわれた後、京都では7校が学校設置認可を受け、9校で特別学級が設置されました。9月までに府が認定した朝鮮人教職員も44人確認されているそうです。
しかし、翌49年の4月から再び市教委は学校明け渡しを迫りはじめ、5月には京都軍政部の意向をうけて府教委が特別学級を不認可にしてしまい、市教委も9月には陶化小の特別学級を閉鎖すると言い出し、月末になると京都第一朝連初等学校を強制封鎖したのです。そのため11月からは、木造アパートの一部を借りて、京都第一朝鮮人学校の自主運営が始まっていくのです。これが今日の京都朝鮮第一初級学校の前身となっています。西陣小学校も50年3月の卒業式まで持ちこたえますが閉鎖され、在校生の多くは日本学校へ編入させられていきます。この学校閉鎖の過程で、京都府知事は文部大臣の認可を受けた財団法人学校をつくることをほのめかしたそうですが、国は財団法人京都朝鮮学園と財団法人大韓民国京都教育会が合併すれば考えると言い出したそうです。結局は無理な話を出しておいて不認可にしたのです。南北分断につけこんで民族教育権をもてあそぶやり口に、戦前の植民地支配と変わらぬ日本の統治姿勢があらわれています。 ソルタン記
つづく。