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不動産受験新報2007年10月号 インスペクション 不動産調査 不動産業の歴史 第6回

2007-10-28 09:00:00 | Weblog
住宅新報社・月刊「不動産受験新報」20007年10月号
       (毎月1日発売 定価910円)


インスペクション 
不動産調査
不動産業の歴史
第6回
蒲池紀生
 
■第4章 昭和時代前期(承前)
(1) アパート経営の本格展開――同潤会
 今日の東京の各地に「同潤会アパート」と呼ばれる古いアパートがあり,その取りこわし・高層マンションへの建て替えなどが話題になっています。この「同潤会アパート」は,1923(大正12)年9月の関東大震災の後,東京・横浜地区の住宅復興事業の主要な一環として建てられたものでした。
 同潤会という団体は当時の内務省系の財団法人で,その名称は中国古典の一節「沐同江海之潤(沐《もく》して江海の潤を同じくする)」からとったものだそうです。同潤会の任務は上記の住宅復興と震災で廃疾者になった人たちへの職業再教育でした。
 住宅建設事業は,当初は市街地での建設用地取得が困難だったので郊外に木造一戸建てを建てていましたが,1926(大正15)年から鉄筋コンクリート造りの市街地アパートを建て始め,中の郷,青山,柳島,渋谷,清砂通などのアパート(賃貸)が次々に竣工しました。そして,「整備した内容と廉価なる家賃によって提供された此の鉄筋コンクリート構造の新しき住宅は,現代文化都市に於ける市民生活の実際に最も適応したる理想的なるものとして,竣工毎に申込者殺到し,異常な歓迎を受けた」とされていました(『同潤会十八年史』による)。
 同潤会は1941(昭和16)年の解散(住宅営団が事業・資産を継承)までに「15か所・2,501戸のアパート」を建設・経営しました。今日のマンションに比べると少戸数ですが,実にわが国の最初の本格的なアパート事業の展開は同潤会によって進められ,都市アパートの一般化が始まったのでした。
(2) 宅地分譲の“小川学校”・“大島学校”
 東京地区では大正中期以降,多くの中堅級宅地分譲業者が輩出しましたが,そのなかで,とくに長期にわたり活発に事業を進めた業者として,郊外土地と大島土地の両社がありました(両社とも戦後も活動し,現存)。
 郊外土地は武蔵小金井の旧家の三男坊・小川泰顕さんが創立した分譲会社でした。小川さんははじめ,分譲会社の原地所(荻窪)に勤め,宅地分譲の仕事を覚えました。そのころはいつも「輪ゴムでたくさんの名刺をたばねて持ち,多くの人々に会い,営業成績は会社のトップを続けていた」そうです。大正中期に独立し,さらに1930(昭和5)年に合資会社・郊外土地を設立,分譲事業を拡大しました。社名のように「郊外(中央線沿線地域など)で広い宅地」の開発を進めました。
 大島土地は,北海道江別出身の大島芳春さんが設立した宅地分譲会社です。大島さんは上京して早稲田専門学校(現・早稲田大学)に在学中,アルバイトで分譲会社の星野土地(新宿)に通っているうちに「土地事業こそわが生涯の仕事」と思い定めて学校を中退,1925(大正14)年に東洋土地を設立して,宅地分譲事業に専念しました(2年後,社名を大島土地と改称)。初期には郊外での造成分譲をしましたが,やがて「便利な市街地を・狭くても一般市民が買える価格で」をモットーとして駒込,板橋,目白,滝野川などで分譲事業を進めるようになりました(郊外土地と対照的な方式といわれました)。
 両社の社員で「仕事を覚えて独立した分譲会社の社長さん」が多く,業界で両社は“小川学校”・“大島学校”といわれていました。
(3) 万国旗ひるがえる宅地分譲風景
 今日ではまったく見られませんが,戦後の昭和30年代半ばごろまでは,東京の宅地分譲地で,“色とりどりの万国旗が張りめぐらされ,ひるがえっている風景”をよく見かけたものです。分譲地に「人びとをひきつけるため」の仕掛けで,さらにブラスバンドが入り,流行歌のメロディーが流れたりしていました。
 この“人寄せ戦略”を初めて演出したのは,大正末に東京・高田馬場で開業(後に中野に移る)した高山地所部の高山喜作さんでした。高山さんは新潟の生まれでしたが,横浜に移住し,成人後は逓信省海事部に入り,外国航路に乗り組んだりしていました。1921(大正10)年に逓信省を辞め,その後,杉並で不動産の売買・仲介業を学んでいましたが,やがて前記のとおり宅地分譲業を始めたのです。
 主として中央線沿線地域を事業活動のテリトリーとしていましたが,ある年,羽村で分譲地の売り出しをしたところ,客がさっぱり来てくれず,“閑散とした分譲現地”の日々が続きました。高山さんは,“客寄せの方法”をいろいろ考えているうちに,船に乗っていた時代の“船の進水式の満艦飾風景”を思い出したそうです。「分譲地も売り出し始めは“晴れの日”,やはり“土地の進水式”が必要だ。分譲地の真ん中に高い柱を立て,四方八方に綱を張り,万国旗を飾りたてよう,流行歌のメロディーを流そう」と思いつき,それを実行しました。すると効果はてき面,たくさんのお客さんがやってきてくれました。
 この“分譲地満艦飾”は,たちまち多くの宅地分譲業者がマネるところとなり,分譲地の一般的な風景となったのでした。
(4) 戦時下の不動産業者の時局協力
 東京・池袋で戦前から不動産業を営んでいた西邨謹太郎さんは,不動産業に関するさまざまなメモを書きとめていますが,そのなかの「戦時下の業者の時局協力」の状況を記した一節を紹介しましょう(概要)。
 1941(昭和16)年,東京府(当時)では警視庁令で不動産業が認可制となり,警視庁・各警察署の要請もあって各地区で業者の組合が設立され,やがてそれらの組合連合会―東京府不動産紹介営業組合連合会が結成されました。この連合会は,終戦までに次のような時局協力事業を実施しました。
 ①当時は物価統制令・暴利取締令などが施行されており,これらの法令に関連する官庁の示達・命令を各組合にキチンと通達し,組合員から違反者を出さないよう努めました。
 ②戦没軍人遺家族の不動産売買・貸借については無料であっせんし,出征軍人・傷夷軍人の家族には無料で貸家・貸間を紹介しました。
 ③強制疎開に伴う代替住宅のあっせんなどを通じて当局に協力しました。
 ④1943(昭和18)年秋,傘下各組合に呼びかけて献金をつのり,戦闘機1機分の金額を集めて陸軍省に献納しました。
 こうした時局協力の半面,“当局の叱責”を受けた事例もありました。その1つ―43年春,池袋のある業者が『朝日新聞』に「閑静な隠宅向き住宅」という物件広告を出したところ,たちまちその日の午後,その業者は警視庁に呼びつけられ,「国民精神総動員下のこの非常時局に“隠宅向き”とは何ごとか」と,ひどく叱りつけられたとのことでした。
(5) 不動産の研究で学位――杉本正幸博士
 今日でこそ大学に不動産学部(明海大学)があり,日本不動産学会も設立されていますが,以前は「不動産なんて学問の対象になりっこない」というのが学界一般の“ご見識”でありました。戦後もかなりの間そういう状態でしたし,戦前・戦中となると“不動産への偏見”は,もっとはげしかったようです。
 そんな“不動産学不毛の時代”に,不動産の研究で経済学の学位をとった人がいました―(前にもとりあげましたが)杉本正幸さんです。杉本さんは北海道岩見沢の出身,上京していろいろな職業に携わりながら苦学力行,日本大学専門部法律学科を卒業しました。その後,ボルネオ(インドネシア)で棉花栽培事業を始めましたが失敗,帰国して東京府農工銀行に入り,そのころから地価,とくに市街地価格を実態に基づいて研究し,また,不動産金融や不動産賃料などについて多くの論文を書きあげました。そして1933(昭和8)年6月,主論文「市街地価格論」,副論文「不動産金融論」で中央大学から経済学博士の学位を取得しました。この時,杉本さんは農工銀行取締役支配人,46歳でした。まさに“不動産学のすぐれた先駆者”というべき存在でありました。
 戦後には日本大学教授になり,また,政府の宅建取引業政策にもかかわり,たとえば,今日行われている「宅地建物取引主任者資格試験制度」の内容(試験範囲など)は杉本さんを中心としてまとめられました。杉本さんは1965(昭和40)年,78歳で亡くなりましたが,その晩年,「昔とちがって,不動産の勉強をする人が多くなった時代を,生きて見ることができ,実に嬉しい」と語っていました。
(6) 陸軍将校たちのための住宅さがし
 昭和初期の恐慌の際,銀行の担保物件処理で活躍した東京の不動産業者・桧山未喜男さん(8月号参照)は,戦争末期にも“変わった商売”をさせられることになりました。
 東京がひっきりなしに米空軍の空襲を受けて焼野原が広がっていた1945(昭和20)年はじめのある日,桧山さんは陸軍の将校倶楽部・偕行社に呼び出されました。行ってみると有名な閣下(将官)たちが待っていて,「実はこのところ,陸軍の将校で自宅を空襲で焼け出される者が増えて困っている。ひとつ,君がいい住宅を買い付けてあてがってくれ」と頼まれました。桧山さんははじめは辞退しましたが,「君を見こんで」と強くいわれて承諾しました。すると,「とくに秘密にことを運ぶこと,しかし,入居後は軍の将校であることが判るのだから,軍の威信を傷つけぬよう,値切ったりしないこと。むろん,しっかりしたいい物件を選び,契約には必ず立ち会ってもらいたい」といわれました。
 桧山さんが,この仕事のため,新聞に「住宅を買います」との広告をすると,空襲をおそれて郊外や地方に引っ越す人が多かった当時,たくさんの申し込みがあり,「とにかく買ってくれ」という人も多く,値段は桧山さんがつけてやることがしばしばでした。しっかりした物件かどうかは桧山さんが自ら確かめており,不祥事は1件もありませんでした。桧山さんがこの仕事のことで大本営(戦争中の軍の中枢機関)に行くと,住宅を世話した高級将校らが歓待してくれたそうです。あまり多くの住宅を買うので,税務署から「おかしい」と調べられたこともありました。
 
■第5章 昭和時代後期(戦後)
(1) 自転車で物件さがし――仲介業の再開
 1945(昭和20)年8月,後年に「15年戦争」ともいわれた長い戦争の時代がようやく終わりました。そして,わが国の現実は,東京をはじめ主要都市の相当部分が焼野原となり,ほとんどの国民が衣食住難に追われている「敗戦国」でした。人々の生活では,まず日々の食物,それから着るものに追われ,住まいは都市では1戸に複数家族,応急小屋・壕舎住まいなどがあちこちでみられました。
 終戦直後の住宅不足数は約420万戸とされていました(後年の戦災復興院の推計)。その内容の概略は,①空襲焼失約210万戸,②強制疎開除却約55万戸,③海外引揚げ・軍人復員による需要増約67万戸,④戦時下供給不足約118万戸,⑤戦死・戦災死による需要減―差引き約420万戸,というものでした。
 戦災復興院は45年11月に設置され,戦災都市の復興と全国の住宅建設の指導などを担当した役所で,48年1月には建設院に改組,さらに同年7月には建設省となりました(→現・国土交通省)。
 不動産業の再開は,東京地区などで46年秋ごろからだといわれており,信託会社(当時は銀行への改組前)・有力不動産業者が住宅・不動産の売買・仲介業務などを始めたようです。こうした業者の人たちは後に「店に物件表示の貼紙をしようにも紙がない。仕方なく新聞紙(当時はタブロイド判)に墨(すみ)で大きな字を書いたものです。それでも住まいを求める人たちがたくさん来店されました」「売り物件をさがしに行くのに,当時は自動車などないわけで,もっぱら自転車でずい分遠方まで行ったものです」と語っていました。
(2) 住宅の“有無相通”を――『住宅新報』
 深刻な住宅難が続いていた1948(昭和23)年4月,住宅・不動産の専門紙『住宅新報』が創刊されました。この新聞創刊の計画は,中野周治さん(山口県出身)とその友人・伊藤芳男さん(同上)の2人が,戦後の焼野原東京を見て「住宅を探す人々に役立ち,祖国復興の一助ともなる新聞をつくろう」と決意して進めたものでした。2人が1948年1月に関係方面に配布した「創刊趣意書」には,次のように「本紙の役割」が記されていました。
「…既存または新築の住宅を売買あるいは貸借せんとする個人間の取引が住宅の“有無相通”を促し,住宅難の緩和に大きな役割を果たしている現状に鑑み,これらの取引媒介の機能を一段と合理化,助長すべきであります。……本紙は,宅地建物の取引上の隘路を打開するため,需給両方への物件周知方法として,紙面上に広告したい事項を広範囲・詳細に総合報道し,相互の希望を迅速かつ合理的に引き合わせ,配合せしめることを企図したものであります」。
 新聞の具体的な使命として,住宅・不動産の流通円滑化のための具体的な情報伝達を掲げていたのであります。
 創刊当初は,用紙不足の当時,タブロイド判4ページ・旬刊でしたが,やがて週刊となり,1949年10月にはブランケット判(普通の新聞の大きさ)に発展しました。以来約60年,さきごろ3000号を数え,住宅・不動産についての長い歴史をもつ総合的専門紙として独自の活動を展開しています。
(3) GHQが不動産仲介手数料方式に介入
 終戦からしばらくたった後,東京の不動産業界の長老とされて声望の高かった桧山未喜男さん(渋谷)と高山喜作さん(中野)の2人は,GHQ(日本駐留の連合国軍総司令部)に業界代表として呼び出されました。
 おそらく民政部の将校と思われる係官から「日本では,不動産売買の仲介手数料を売買双方からもらっているが,そのやり方はよくない。大金を支払った買主からは取らず,大金を得た売主からだけもらうようにすべきだ。アメリカではそうやっている。たとえば,双方から売買金額の3%ずつではなく,売主から6%もらい,売買双方についた仲介人2人は6%を分けるのだ」ということを要請されました。
 日本の不動産業界の商習慣では,手数料は双方から出してもらい,売買両者の間に入った仲介業者が1人の場合は双方から手数料を1人でもらい(これを“両手”と称しました),売り手と買い手の双方に2人の仲介業者がそれぞれ1人ずつついていた場合には,それぞれ片方から手数料をもらう(これを“片手”と称しました)というやり方をしてきていました。
 GHQ係官の話にも“一理はある”ようにも思われましたが,桧山さんと高山さんは,「日本のこれまでのやり方はやめさせるわけにはいかない」と考え,「“双方から”が長い商習慣だから」と一生懸命に強調して,なんとか“双方制”を認めてもらいました。
 その後の1952(昭和27)年に制定された宅地建物取引業法も“双方制”を定めています。



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