とんねるずを基点とした「コンビ」のあり方について、最後にまとめておきます。
コンビというユニットは、(兄弟などの血縁コンビをのぞいて)赤の他人のふたりが極度に密着した生活を送ることを強いられるため、なにかのきっかけで歯車が合わなくなった時、その関係を修復することができなくなるという側面ももっているだろう。コンビにとって避けることのできない「仮そめのヒエラルキー」が、ともすれば崩壊の原因ともなりかねない。
以前、「奇蹟の理由 ふたたび」という記事で、「とんねるずにはエゴイズムがない」と書いたことがある。「とんねるず」というコンビユニットを守り抜くため、石橋貴明と木梨憲武はあらゆる努力と犠牲をはらってきた。
なぜひとり<とんねるず>だけが、四半世紀にわたるコンビ活動を、その本質をほとんど変えることなく続けて来られたのだろうか?
おそらくその理由は、とんねるずの芸人としての土台にも関わっている。とんねるずの笑いの出発点は、パロディである(そもそもふたりの芸は、アマチュア時代のものまねに始まっている)。
パロディをおこなうためには、パロディの対象を徹底的に相対化する必要がある。
パロディとは、つまり「対象の本質をはずす/ずらす」という行為だろう。それを成功させるためには、対象の全体像を確実に理解し、客観的に把握し、そして批判する力がなければならない。<仮面ノリダー>を作るためには、本家の<仮面ライダー>を特徴づける要素---おやっさん、ショッカー、ライダーの話し方、性格、敵との複雑な関係性、など---を確実におさえ、そしてはずすことが必要なのだ。
小林信彦氏が、元日本テレビプロデューサー井原高忠氏の「おかげです」へのホメ言葉をノリさんに伝えたときのこと。
「感激です・・・『ゲバゲバ90分』のお約束をやってるんですからね、ぼくたちは」
と、ノリさんは答えたそうだ(『コラムにご用心』より)。
とんねるずは、あらゆる"お約束"を相対化しパロディ化してきた。その視線は、過去の笑いの歴史そのもの、コンビ芸人たちの歴史そのものへも向けられずにはいないはずだ。いかに多くのコンビが、「仮そめのヒエラルキー」の壁を乗り越えることができず、倒れていったかを、彼らは知り抜いているのだろう。
とんねるずだけは、同じ轍を踏むまい---その信念が、ノリさんをしてタカさんを「とんねるずのリーダー」と呼ばせ、タカさんに「憲武は日本一のエンターテナー」と言わしめてきたのだ。
互いに相方を立て、その個性を尊重すること。「お笑い界のニューホープ」のうっかりびっくりのように、和解する力を持ち続けること。そして、かたくななまでに<とんねるず>の殻の中にふたりだけを閉じ込めること。そうすることで、とんねるずは<とんねるず>でありつづけ、「仮そめのヒエラルキー」を乗り越えることに成功したのである。
このようなあり方は、いわゆる「お笑い第三世代」のウッチャンナンチャン、ダウンタウンにもある程度共通しているといえると思う。しかし、これはむしろ例外である。現在、あらたなお笑いブームにのって、次々に登場している新人コンビたちのほとんどは、ふたたびMANZAIブーム時に近い性質(目立つ者と目立たない者)を帯びてきている、という印象をわたしはもっている。
しかし、<とんねるず>時代を通過してきた彼らは、芸よりも<コンビの絆>を大衆が求めていることを、よく知っている。そこで、コンビ間のヒエラルキーを無化するために、若手コンビたちがとった道---それは、複数のコンビ芸人が集まって活動する、という形態だ(*1)。
たとえば、おぎやはぎ、ラーメンズ、バナナマンのユニットによる「君の席」。彼らのライブコントに「6人の内1人ぬけるなら誰か?」を話し合うネタがある。そこでは、それぞれのコンビの「目立たない方」がピックアップされ、6人が「一軍と二軍」に分けられる。コンビの「仮そめのヒエラルキー」の存在を逆手にとったネタだ。これは、現在もなお、コンビに「仮そめのヒエラルキー」が避けがたく存在することを意味している。
しかしネタの最後には、抜けた一人が頭を下げて仲間にもどり、「やっぱり6人じゃなきゃ、だめなんだ」という結論で終わる。とんねるずに始まった"仲間"への強い志向は、このような形で受け継がれているのだ(*2)。
鶴見俊輔氏の『太夫才蔵伝』には、こうある。
祝福芸としての万歳の見せ場の一つは、太夫役と才蔵役とが、たがいに顔を見あってにっこりわらうところにある。・・(中略)・・太夫・才蔵の二人は、人間のいとなむ社会としての最小の単位であって、その掛合いと和合の呼吸が、さまざまの社会の好もしいつきあいの型として感じられただろう。
とんねるずは、現代の太夫才蔵にほかならない。タカさんとノリさんがにっこりと笑いあう姿に、わたしたちは、人と人の関係性の、理想の姿を見い出しつづけているのである。
(*1 機を見るに早い吉本興業は、すでに90年代から複数のコンビによるユニットとして「天然素材」などをプロデュースし、そこからナインティナイン、雨上がり決死隊といった全国区のスターを生んだ。)
(*2 それは、新たな笑いの形を生む可能性という「功」とともに、「罪」の側面もある。"仲間"への強すぎる志向からは、たとえば北野武(ビートたけし)のような巨人や、とんねるずのような比類ない大スターは、生まれにくくなるかもしれない。)
おわり。
コンビというユニットは、(兄弟などの血縁コンビをのぞいて)赤の他人のふたりが極度に密着した生活を送ることを強いられるため、なにかのきっかけで歯車が合わなくなった時、その関係を修復することができなくなるという側面ももっているだろう。コンビにとって避けることのできない「仮そめのヒエラルキー」が、ともすれば崩壊の原因ともなりかねない。
以前、「奇蹟の理由 ふたたび」という記事で、「とんねるずにはエゴイズムがない」と書いたことがある。「とんねるず」というコンビユニットを守り抜くため、石橋貴明と木梨憲武はあらゆる努力と犠牲をはらってきた。
なぜひとり<とんねるず>だけが、四半世紀にわたるコンビ活動を、その本質をほとんど変えることなく続けて来られたのだろうか?
おそらくその理由は、とんねるずの芸人としての土台にも関わっている。とんねるずの笑いの出発点は、パロディである(そもそもふたりの芸は、アマチュア時代のものまねに始まっている)。
パロディをおこなうためには、パロディの対象を徹底的に相対化する必要がある。
パロディとは、つまり「対象の本質をはずす/ずらす」という行為だろう。それを成功させるためには、対象の全体像を確実に理解し、客観的に把握し、そして批判する力がなければならない。<仮面ノリダー>を作るためには、本家の<仮面ライダー>を特徴づける要素---おやっさん、ショッカー、ライダーの話し方、性格、敵との複雑な関係性、など---を確実におさえ、そしてはずすことが必要なのだ。
小林信彦氏が、元日本テレビプロデューサー井原高忠氏の「おかげです」へのホメ言葉をノリさんに伝えたときのこと。
「感激です・・・『ゲバゲバ90分』のお約束をやってるんですからね、ぼくたちは」
と、ノリさんは答えたそうだ(『コラムにご用心』より)。
とんねるずは、あらゆる"お約束"を相対化しパロディ化してきた。その視線は、過去の笑いの歴史そのもの、コンビ芸人たちの歴史そのものへも向けられずにはいないはずだ。いかに多くのコンビが、「仮そめのヒエラルキー」の壁を乗り越えることができず、倒れていったかを、彼らは知り抜いているのだろう。
とんねるずだけは、同じ轍を踏むまい---その信念が、ノリさんをしてタカさんを「とんねるずのリーダー」と呼ばせ、タカさんに「憲武は日本一のエンターテナー」と言わしめてきたのだ。
互いに相方を立て、その個性を尊重すること。「お笑い界のニューホープ」のうっかりびっくりのように、和解する力を持ち続けること。そして、かたくななまでに<とんねるず>の殻の中にふたりだけを閉じ込めること。そうすることで、とんねるずは<とんねるず>でありつづけ、「仮そめのヒエラルキー」を乗り越えることに成功したのである。
このようなあり方は、いわゆる「お笑い第三世代」のウッチャンナンチャン、ダウンタウンにもある程度共通しているといえると思う。しかし、これはむしろ例外である。現在、あらたなお笑いブームにのって、次々に登場している新人コンビたちのほとんどは、ふたたびMANZAIブーム時に近い性質(目立つ者と目立たない者)を帯びてきている、という印象をわたしはもっている。
しかし、<とんねるず>時代を通過してきた彼らは、芸よりも<コンビの絆>を大衆が求めていることを、よく知っている。そこで、コンビ間のヒエラルキーを無化するために、若手コンビたちがとった道---それは、複数のコンビ芸人が集まって活動する、という形態だ(*1)。
たとえば、おぎやはぎ、ラーメンズ、バナナマンのユニットによる「君の席」。彼らのライブコントに「6人の内1人ぬけるなら誰か?」を話し合うネタがある。そこでは、それぞれのコンビの「目立たない方」がピックアップされ、6人が「一軍と二軍」に分けられる。コンビの「仮そめのヒエラルキー」の存在を逆手にとったネタだ。これは、現在もなお、コンビに「仮そめのヒエラルキー」が避けがたく存在することを意味している。
しかしネタの最後には、抜けた一人が頭を下げて仲間にもどり、「やっぱり6人じゃなきゃ、だめなんだ」という結論で終わる。とんねるずに始まった"仲間"への強い志向は、このような形で受け継がれているのだ(*2)。
鶴見俊輔氏の『太夫才蔵伝』には、こうある。
祝福芸としての万歳の見せ場の一つは、太夫役と才蔵役とが、たがいに顔を見あってにっこりわらうところにある。・・(中略)・・太夫・才蔵の二人は、人間のいとなむ社会としての最小の単位であって、その掛合いと和合の呼吸が、さまざまの社会の好もしいつきあいの型として感じられただろう。
とんねるずは、現代の太夫才蔵にほかならない。タカさんとノリさんがにっこりと笑いあう姿に、わたしたちは、人と人の関係性の、理想の姿を見い出しつづけているのである。
(*1 機を見るに早い吉本興業は、すでに90年代から複数のコンビによるユニットとして「天然素材」などをプロデュースし、そこからナインティナイン、雨上がり決死隊といった全国区のスターを生んだ。)
(*2 それは、新たな笑いの形を生む可能性という「功」とともに、「罪」の側面もある。"仲間"への強すぎる志向からは、たとえば北野武(ビートたけし)のような巨人や、とんねるずのような比類ない大スターは、生まれにくくなるかもしれない。)
おわり。










こちらの記事を紹介させて頂きましたので
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紹介記事は
http://blog.livedoor.jp/ma_sa20007/archives/53312378.html
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