暴論 雑説 独言 vol.2

疾く破りてむ。
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「泣ける」という宣伝文句について

2016-10-15 07:21:27 | 文学論
「今ここにある(ように見える)自己」しか我々には知覚できない。
他者の実在を知覚することはできない。
だから我々の「特別な存在でありたい」という願望は先天的なものである。
「今ここに確かにいる自己」が「いるんだかいないんだかわからないその他他者」と同じと認めることは難しいからだ。

しかし現実には、99%の人間は「特別なボク/ワタシ」であることはできない。
勉強でも運動でも芸術でもそうだ。
何せ比較的ありふれている(特別かどうかも怪しい)「各学年の東大合格者」ですら0.2%程度しかいないのだ。
運動や芸術の方面で名を成しうる人間はそれよりもっと少ない。
よって世間は「前世が誰それ」だとか「スピリチュアル何とか」といった、努力せずに「ステキで特別な私」感を味わえる商材で溢れることになる。
「もともと特別なオンリーワン」はそうした意味での慰めを与えてくれはしない。
その言葉は「特別さ」を実感させてくれはしないからだ。

「泣ける○○」はそういった消費のされ方をするブンガクに張り付けられる宣伝文句だ。
その宣伝文句によって、「感動」および「感動を表明する作法」はパッケージされて販売される何かとなった。
これが「ブンガクに感動して泣ける感性を持っている、ステキで特別なワタシでありたい」需要へのブンガクからの返答である。
「全米が泣いた」は古典であり、「ドラ泣き」「涙活」の類は多少目新しいが、そうしたコピーが我々に与える違和感は、これらが「感動する」という超・個人的な営為を我々から奪い去ろうとするものであるからだ。

「特別な自分でありたい需要」が「個人の領域」を審判することにつながるというこの事実はまことに皮肉なものである。
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