暴論 雑説 独言 vol.2

疾く破りてむ。
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おはなしとしての犯罪報道について

2016-10-29 19:15:10 | 国家論
「童話」には残酷なものが多い。
タヌキが親切な婆さんを婆汁にして爺さんに食わせ、ウサギに復讐される話、人食いの魔女に囚われて太らされ、最後に魔女をオーブンに突き落として焼き殺す話、いずれも残酷である。
しかし、こうした残酷な「おはなし」が、「童話」として構成される以前から大人が子供に語って聞かせる「おはなし」の素材として主要な地位を占めていたことは多くの証言が物語っている。
魔女のおはなし、人殺しのおはなし、盗賊のおはなし、継子いじめのおはなし、拷問のおはなし、それらを大人は娯楽として語り、子供はそれを娯楽として受容した。
「おはなし」は非日常を楽しむ娯楽である。
そして「犯罪」はまさしく非日常である。
「隣の村の善良でまじめな田吾作どんがまじめに生きてかわいいお花ちゃんと夫婦になって幸せに暮らした」話は「おはなし」になることができない。
孔子が「怪力乱神を語らず」とした、その「怪力乱神」こそが非日常性を持つ「おはなし」たる資格を持つのである。

それは決して「人権思想が普及していない、未開な時代」特有の現象ではない。
我々はまだ娯楽を求める傾向を同じように持っているし、非日常を語る「おはなし」を娯楽として消費する習慣も維持している。
そして「犯罪」は当然ながら現在でも非日常である。

犯罪報道は娯楽である。
どんなに悲劇的な虐待事件も殺人事件も交通事故も災害も死刑執行も、報道された後はただの娯楽の素材として消費される運命にある。
そういった報道に触れて心を動かすのと「闇金ウシジマくん」を面白がって読む心性との間にどれだけの実質的距離があるのか。
「秋葉原連続通り魔事件」の報道を聞く態度と「ゲス川谷の所業」の報道を聞く態度との間に差は存在しているのか。

私たちは残酷な事件や事故の報道を見聞きし、心を動揺させる。
あるいは同情し悲しみ、あるいは怒りを沸き立たせる。
しかしそうして心にたったさざ波は次の食事の時にはもう治まっているのが常である。
その報道が「我々に必要な何か」であったかを検討してみるなら、それが実に心もとないものであることはすぐに了解されよう。

確かに少年犯罪に対する厳罰化や危険運転致死罪の創設は事件・事故報道が世間を動かした事例ではあろう。
しかしそれすらも「娯楽」でないとどうして言えるだろうか?
それはただの「参加型のおはなし」であると言えはしまいか。

犯罪報道は娯楽である。
我々は、その非日常を「おはなし」として、「娯楽」として消費しているだけである。
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