Physical Therapist

理学療法士って仕事はなんだろう…。

姿勢・動作障害にたいする運動連鎖観点から捉えた治療戦略

2006-11-11 22:42:58 | Weblog
こないだの勉強会について少し紹介したいと思います。

まず、運動器変性疾患の病因についてですが、「姿勢・動作がその発症に影響しているのはず」という考え方だそうです。

もし、我々が日常生活において上手に力学的技術(重力に対する身体運動)を用いると、筋肉への負担は軽減し、動作の安全性が増し、筋・筋膜の緊張が少なくなり、無駄な動作が減少し、気楽な気分と優雅な動作が作り出されますが、一方で、下手に力学的技術を用いると、筋肉の負担が増し、動作の安全性が減少し、筋・筋膜の緊張が高くなり、無駄な動作が増加し、憂鬱な気分とぎこちない動作が作り出される。
 
これらの身体に対するリスクファクターが運動器(関節・骨・軟部組織etc…)にメカニカルストレスを与え続けることにより運動器変性疾患が生み出されるわけです。

では、ただ単純にその力学的技術を改善すればいいのでしょうか?という盲点に入ってしまいそうですが、一度、骨関節疾患を呈してしまった患者はその疾患に特徴的な姿勢・動作パターンを中枢神経系にインプットし、命綱にしがみつくようにそのパターンを放そうとしません。

何故なら、その疾患にあった特徴的な姿勢・動作パターンはある意味で力学的に安定しており、自らの身体運動機能と感覚調整能力から見つけ出された最適な姿勢・動作パターンだからです。

詰まるところ、原因が力学的な問題であっても、中枢神経系に与えている影響は大きく、運動器だけで解決することは不可能なように思えます。

一昔前の骨関節疾患に対する理学療法はどうでしょうか?
例えば、腰痛症⇒腹筋強化、膝OA⇒大腿四頭筋強化、股OA⇒中殿筋強化、肩関節周囲炎⇒コッドマン体操etc…など、骨関節障害の本質的問題を捉えていなかったことは否定できないでしょう。

このような従来の方程式な治療戦略は、従来の習性(既存の神経・筋調整機構)により、決まった姿勢・動作パターンに対してさらに拍車をかけていきます。

PTが扱う日常生活動作も同様に、身体の関節を介して流れるエネルギーの相互伝達に有効で効率的な動作というものを無視して、個々の筋肉をトレーニングしても、パフォーマンスの向上に必ずしも結びつかない。動作そのものを「出来る・出来ない」で判断するのではなく、運動動作時に生じるエネルギーの流れやすい動作体系の構築を図る必要性がある。

姿勢・動作を変化させる理学療法戦略として、筋の緊張を緩めることや筋力を強化する、または関節可動域を増加させるということに強調点を置くことよりも、筋活動・感覚器の活性化から身体の再調整を行うことに強調点を置くことが重要である考えられる。

わかりにくいかも…。


勉強会にいってきました。

2006-11-06 21:08:33 | Weblog
個々最近はパソコンに触れることも無く、ブログの更新もしていなかったのですが、同じ職場のきまぐれOTさんに注意され、久々にブログを書くことにいたしました。

実は昨日、県の理学療法士協会主催の勉強会に行ってまいりました。

タイトルは「整形疾患領域における運動連鎖的アプローチ」で、某大学のK先生に講演していただきました。


講演の冒頭に理学療法の歴史と今後の話があったのですが、やはり今回の診療報酬改訂について触れられていました。

結論はやはり我々セラピストの責任だと…。正直、私も同意見でしたが、さすがに説得力が違います。批判的であった職場の同僚も今までの現状に対して深く考えさせられた様子でした。

では、今後はどうして行けばよいのでしょうか?

やはりそこは効果判定と臨床研究の積み重ね…。これに尽きると私そう自身思います。

PT第2世代のK先生は同世代の先生方とよく討論になるそうですが、理学療法のアイデンティティの確立、そしてさらなる発展の基盤作り、第2世代の役目はそこにあるとお話ししていただきました。

さて、第3世代と言われる我々は…?深く考えさせられますが、着々とPTの世界にも新しい時代が波が到来しようとしています。まずはその波に呑まれることなく、さらなる上を目指していかなければいけないのでしょう。

話は勉強会の内容に戻りますが、実はK先生の講演はこれで2回目。内容は似たような内容でしたが、最近流行のロルフィング、フェルデンクライス、単関節筋・二関節筋、感覚統合理論、筋連結を踏まえ、力学的視点をベースにした理学療法。

今度は勉強会の内容を詳しく、ブログに書こうかな。

先輩との口論

2006-10-25 23:50:58 | Weblog
先日、久々に職場の先輩であるOTと口論してしまいました。

内容はOT先輩と一緒に担当している外来通院の一人のクライアントについて…。

私は1ヶ月前からとあるPT先輩との担当変更により、担当をすることになったのだが、そのクライアントは身体機能面においても障害が大きい上に、高次脳機能面にも障害がある、一癖も二癖も大きな問題を抱えています。

さらに問題なのは、そのクライアントの奥さん…。リハビリに対して積極的ではあるものの、自分の夫に過酷な自主訓練を強要し、転倒の危険性やオーバーワークを省みず、半ば無理矢理、歩行訓練をさせてしまうのです。

前担当から「奥さんが平行棒以外の場所で歩行訓練させていたらすぐ注意して」と言われているものの、我々の監視が届くのは訓練室内のみ。案の定、家では転倒を繰り返し、今年の春には自宅での転倒で圧迫骨折を受傷してしまっているのです。

現在でも「そろそろ、平行棒以外の場所でも歩かせていい?」と平気な顔をして私に相談しに着ます。

勿論、転倒の危険性やオーバーワークでなく、本人もそう望むのならば歩行訓練の許可を出しますが、前担当が介助歩行をしていても転倒してしまっていると言うほどの危険性があるものですから、無論、許可はだせません。

そんなさ中、OT先輩からこんなことを言われてしまったのです。

「あの奥さんがね、『なんか今のPTは事務的な対応で、融通が効かないのよ』って言ってたんだけど…」

そりゃそうですよ。あの奥さんは無茶難題を押し付けるんですから、危険性があることをきちんと説明して、クライアントの現在の身体機能面について理解してもらおうとしてるんですから。

そんなことから口論がはじまったのです。

OT先輩は自分のこう言いました。「じゃあ、奥さんたいして動作指導をしたり、きちんとした自主訓練を指導したらいいじゃない。PTの訓練であなたは何をしてるの?」

自分「動作指導や自主訓練を提示して今の奥さんが受け入れてくれますか?たたでさえ、自分に対して不満がある状態で、現状よりも奥さんにとってレベルを落とすような動作指導。自主訓練をあの人が納得するとは思えません。現に前担当がいくら説得してもきかなかったんでしょ?だから、自分的には奥さんにクライアントの現在のレベルをきちんと自覚して頂きたくて、色々説明したんです。でもなかなか受け入れようとはしませんけどね。」

OT先輩「じゃあ、PTでは特に何もしてないのね?」

自分「今のところ進展はないですよ。クライアント本人も失敗経験の積み重ねや恐怖感から自発性が非常に乏しい状態なうえに障害が重度ですから、積極的なPTのアプローチはなかなか出来ていません。なんとか自発性の向上や達成感を踏まえた上で進めて行くつもりですが、奥さんの強要や過剰な介護が止まりませんからね。それもなんとか減らしていくべきだと考えています。」

OT先輩「じゃあ、PTの訓練をして意味あるの?」

自分「あのクライアントに必要なものは、PT的というよりはOT的かもしれません。」

OT先輩「PTの訓練は必要ないの?奥さんがあんなに身体機能面の向上を訴えてるのに?」

自分「だから、身体機能面の向上を促そうにも、クライアント本人がまったく受動的な状態でどう身体機能面の向上を促すんですか?第一、OTでは何してるんですか?」

OT先輩「今はトイレの介助量軽減に向けて移乗動作の練習を中心にしてる。」

自分「トイレ動作の練習の際に、本人は自ら移乗しようとしますか?本人は移乗したがってますか?」

OT先輩「いいや…。」

自分「それじゃあ、奥さんとしてることと同じじゃないですか?そんな訓練誰でも出来るんじゃないです?それで、移乗動作が向上するんですか?」

OT先輩「だって、あのクライアントは自分でしようとはしなんだもん。徐々に介助量を減らしていくしかないじゃない。」

自分「介助量に変化はあるんですか?…」

ここらへんで、他スタッフに注目されていることにお互い気付き、口論はおわりましたが、自分でも恥ずかしいくらい大人気ないですよね。PTとしても出来ることは多くあるはずなのに、上手くいかないからとOT先輩の責任にしようとしてしまった自分が何よりも悔しい…。

正直、奥さんが自分のことを『事務的』なんて思ってる時点でセラピストとして失敗なんでしょうか…。帰ってかなりへこみました。

ちなみに、その日中にOT先輩に和解しました…。

後に知らされる凄さ

2006-10-22 01:58:19 | Weblog
やっと帰ってこれましたが、今日は研修会の帰りです。

最近、土日の休みが研修会や勉強会でつぶれる日々が今年に入って多くなったように思えます。

実際に休みが少なく、体調を崩すこともしばしば…。今日も研修会に向かう途中、同乗した先輩に「体調良さそうな所見たことないよね」と言われてしまいました。

今日の研修会は私が働いている病院の元職員の先輩が主催している、理学療法に対して熱いメンバーによる研修会で、某大学の有名な先生を外部講師として招いて開かれました。

タイトルは「姿勢からの展開アプローチ」。日本語的におかしな感じがしますが、主に体幹の分節的安定化と運動連鎖、コアユニット(インナーユニット)やアウターユニット、姿勢制御、単関節筋や二関節筋の話、など、整形分野のみならず中枢・呼吸の分野でも一般化されつつあるお話でした。

最近の治療展開の流れ的に、問題部位を対象とする理学療法よりも、問題部位を身体全体との関連にて捉える理学療法戦略が主流になっていることは確かですね。

そんな研修会や勉強会に参加してみていつも思うことは…。

「ボバースのインストラクター級の人たちは何年も前から、これらのこと知って治療展開していたのだろうか?」と思わされるのです。

実際、インストラクター級のセラピストの治療には度肝を抜かれるものがあります。でも大抵は理論的に納得する説明をなかなかしてくれません(時間的な問題もありますが)。

学生時代にインストラクターの先生に理論的な説明を求めた際に言われたことがあります。

「理論的に説明は出来ないね…。自分自身は感覚的になんとなく理解は出来るけど、まだ研究されてないことが多いからね。相手に説明する際に自分の経験的なエビデンスを説明しても納得してもらえるはずないでしょ?だから大学とか研究施設でゆっくり研究したくてたまらなかったよ。でも、患者を目の前にして治せないいんじゃ話しにならないでしょ?臨床では理論的に説明がつかない(現時点で)ことでも結果をださなきゃいけないんですよ。それが臨床で働くってことです。だから、新しい治療戦略というものは常に臨床で生み出されるものなんです。」

自分はこの話しを聞いて臨床家になろうと決心したはずなに、忘れるもんですね…。

ついつい、「あの人達のやっていることには理論がない」とか、自分自身の治療戦略の幅を狭めるような偏見に陥っていたのだろうか。

結果のだせる臨床家のやってることは理論的に説明がつかなくても、間違いではないということですね。

研修会疲れであんまりまとまってないや、明日も頑張ろう。

院内での発表:廃用症候群と在宅生活について

2006-10-12 19:36:24 | Weblog
私の働いている病院では昼休憩のうちの30分間を使って、週に一回院内全体での勉強会を行うのですが、勿論、リハ部門だけでなく、医局、看護部、福祉部と、各部門から代表してプレゼンを行います。

今週は私の所属するPT科のとある班が発表ということで、発表デザインに悪戦苦闘しつつも(集団でデザインを決めるのは難しいですね)、「廃用症候群」を主テーマに在宅で生活されているクライアントの生活スタイルを提示しつつ発表するという内容でした。

「廃用症候群」…。もう一般的に知られていることなのであえて述べませんが、私が今回着目した点は「廃用症候群の悪循環」と「社会心理的背景」について…。

入院時に「屋内歩行自立」や「移乗動作自立」といった身体的機能を獲得したにも関らず、過度な臥床をされているクライアントについて少し考えてみようと思ったのです。

結論から言うと残念ながら、在宅で生活されているクライアントは本当に過度な臥床を行っており、日中の活動量の少なさが目に余る結果となっていました。

何故?何故この人たちは動かないのだろう?

私の所属する班には現在、訪問リハをされている先輩がいたため、率直に聞いてみることにしました。

答えは簡単です。「何もすることがないから」

結局、私たちが身体機能を高め、基本的動作や移動能力を獲得させたとしても、実生活で使う場面がないのが現状なのです。

「社会的活動への制約」・「尊敬の低下」がその人の生活の幅をどんどん狭め、結局ベッドで寝て過ごす、そんな生活を続けることで、心理面では明らかな自発性・社会性の低下依存心の増加など心理的荒廃を引き起こします。

それらが身体に与える影響は…。言わなくても解ると思いますが、明らかな悪循環を引き起こすことは考えるまでもありません。

私たちが入院中のクライアントにゴールとして提示していた動作は本当にその人の生活にとって重要なものなのでしょうか?

退院したクライアントがこんなに臥床していることをどう思いすか?こんな生活でその人の身体機能を維持できると思っているのか?もし、もっと良い生活スタイルをおこなっていたら外来リハで通院する必要性もないのでは?

人間の生活ってなんですか?

病院のスタッフには伝えたいことは山ほどあったんですが、ペーペーの私が言うよりも経験年数の高い上司が訴えかけた方が伝わりやすいと思い、上司に伝えてもらいました。

少しは伝わったかな…。心配です。

正常な運動?②

2006-10-07 22:45:47 | Weblog
前回はアシモくんの悲しいお話で終わりましたが、「正常な運動」の続きとなります。

人間が歩行による移動を行う再、必要とする力学的エネルギーは何か?

筋力?、関節角度?

「筋力・関節角度」はある意味で正解ですが、それだでは人間は歩くことが出来ません。現に無重力空間で力いっぱいロコモーターを動かしても移動することは出来ないのです。

人間が地上に存在する限り、常に「重力」と言われる外力が我々の身体に影響を与え続けます。

「重力」は常に一定の力を我々に与え続けますが、その「重力」に反作用する「床反力」といわれる外力も常に存在します(作用・反作用の法則)。もし、この「床反力」がなければ、ビルから飛び降りた状態と同じ…。人間は重力によって自由落下をし続けます。

「重力」は常に一定ですが(富士山など高所では低くなりますが…)、実は「床反力」をコントロールすることにより我々は重心移動を可能としているいわけです。その、「床反力」をコントロールする際に用いられる内部エネルギーが「筋力」・「関節角度」と言うわけです。

つまり、人間は「筋力」・「関節角度」により「床反力」をコントロールし、「重力」との関係において身体重心を空間的・時間的にコントロールしているのです。

人間の歩行の際におこる「床反力」を見たことがある人はお気づきと思いますが、フォースプレートといわれる床反力計測装置はもちろん平面なものにも関らず、同じ人間が何度歩こうが全く同じ床反力成分になることはありません。

いくら同じ健常人がまったく平面な平地を歩行しても、計測から得られる床反力成分は微妙に異なってきます。しかし、波形パターンは常に一定となります。特に特記すべき点として、「床反力」は常に身体重心を通ることはかわりません。

ではアシモくんや、身体に何らかの障害を有する方たちはどうでしょうか?

アシモくんの「膝関節の固定」と同じように、何らかの障害にを有する方たちは上記で述べた制御とことなり、「筋力」・「関節角度」の調整が拙劣で、「関節角度」にいたっては常に一定なんてかたもいます。

「筋力」・「関節角度」が拙劣な場合、もちろん「床反力」のコントロールなんてもっと酷いことになります。成分はばらばらで、パターンも一定ではありません。最悪の場合、床反力が身体重心を通らず、転倒の危険性に繋がることも少なくないでしょう。

そんな「床反力」・「重力」などの外力への適応が乏しい状態は、筋力を過剰に使用し、関節への負担も多くなるのは必然的といえるでしょう。

したがって、高齢者や脳血管障害者、整形外科疾患の方たちは、平面でなれた場所でしか歩けなくなり、ちょっとした事でバランスを崩し転倒をしてしまうか、エネルギー効率の低さから易疲労になったり、関節へのストレスにより疼痛を訴えるのです。

これらは「正常な運動」とは明らかに異なるものです。

「正常な運動」とは、状況(外力)に応じて身体運動(内力)を変化させる能力を有し、無数に存在する運動バリエーションの中から、最も状況に適した運動を選択し、実行する能力をいいます。

だから、「正常な運動」に形なんてものはないのです。

あんまり、上手くまとまってないな…。





正常な運動?①~Normal movement?Human movement?も含めて~

2006-10-05 23:46:46 | Weblog
「正常な運動に近づけたいです…。」

なんて言葉はうんざりするほど聞いてきましたが、まず、クライアント対してセラピストのエゴを押し付けるような行為はサービスの提供者として間違っています。

では本題に戻りますが、「正常な運動」とはどんなものでしょうか?

数年前にボバースコンセプトの中で「Normal movement(正常な動き)」と言われていたものは、「Human movement(人間の動き)」変換をとげました。

詳しい内容までは勉強不足を否めませんが、インストラクターの説明と自己勉強の結果から、大まかな内容の変化はみられません。

「言い方が変っただけ?」と言われるかもしれませんが、そこに大きな意味があります。

「正常な動き」と「人間の動き」では全く意味が違うのは一目で解ります。

ボバースコンセプトの中のHuman movementが「人間の動き」と称されることが正しいか間違いかは判断しがたいのですが(ボバースコンセプトは奥が深い上に情報があまり入らないので…)、自分なりの理解できる範囲では「運動連鎖」の視点から見た際に、「人間の動きのなかでの連鎖的な運動の広がり」というものを深く学べる素晴らしい学問です。

さて、そんな人間の動きを理解していた人たちが何故、「正常な動き」から離脱していったのでしょうか?

結論を言えば、「正常な動き」というものに形はないからです。

HONDAのアシモくんは走ったり、ダンスだってできますが、実はそのステージの裏ではエンジニアたちがドキドキしながら待期していいるそうです。

何故なら、アシモくんの現状ではいつ壊れてもおかしくないからだそうです。

人間のロコモーターとアシモくんのロコモーターの大きな違いは、ずばり「膝関節の運動」にあります。

実はアシモくんは走ったり、ダンスしたりする際に膝関節が一切動いていません。

ロコモーターをプログラミングする際に、股関節・足関節の制御は数式で制御できるそうですが、そこに膝関節の数式までプログラミングさせると数式の関数が無限ループを起こしてしまい、動かなくなってしまうからだそうです(詳しくは機械工学の話が難しすぎて話してくれませんでしたが)。

話は戻りますが、アシモくんは膝関節が固定されているため、①イニシャルコンタクトの際に衝撃吸収ができない、②重心の上下運動がないエネルギー効率の低さ、ゼロモーメントポイントがないことによる関節へのストレス増加、なんて大きな欠陥があり、いつ壊れてもおかしくないのです。

あんなに動けるアシモくん、やっと動けたばかりなのに可愛そう。なんて悲観的になっちゃいますが、正常な動きを話すにはまだまだですね。

しかし、アシモくんを始め、HONDAのエンジニアたちには本当に勉強させていただくことが多くあります。

エンジニアたちはロボットを作るために人の動きを知りたがりますが、僕はロボットとの動き(システム)を知って、初めて人の動きを知ることが多くあります。

機械工学の世界からも知識の吸収は必要ですね。

学生時代に質問したこと。

2006-10-01 19:25:09 | 概念
自分が学生の頃、有名な概念に基づいて治療展開をなさる有名なセラピストの見学させて頂いたことがあるのだが、そこでこんな質問をしてみました。

「いったいどれほどの考えをもって治療展開されているのでしょうか?」

漠然とした質問だが、当時の自分にとって、「考え方=戦略」というセラピストにとって必要な武器をどれほもてば、これほどに凄い治療展開がなされるのか興味を持たされた。

答えは…。
①モーターコントロール(各種出力について全て)
②モーター心理コントロール(出力結果への心理作用)
③正常発達・進化(キネシオロジーも含めて)
④神経可逆性(Nudoらによる)
⑤生物力学(神経・非神経の分子化学と組織)
⑥知覚学習(各種運動学習システム)
⑦認知障害モデル(環境適応・障害事例の解釈)
⑧感覚統合モデル(入力・出力間の調整)
⑨空間・時空列系モデル(環境・課題遂行型解決法)
⑩視覚基準系
⑪人道的専門家態度
⑫心理・社会基準系(コミュニケーション)
⑬対処基準系(ハンドスキルを含む解決能力)

…。こんなにも考え、実行しているのなら、40分という短い時間で人間を変えられることは納得できる。

さらに、以上の項目はあくまで基本原則的なものであって、軸でしかない。これに個々のクライアントに合わせた戦略が付け加えられるという。

「thinking therapist になりなさい。」

我々はただの職人ではなく、科学に基づいた技能者にならなければならない。

関節可動域制限

2006-09-27 20:28:31 | Weblog
関節可動域に制限がある場合、それは即「関節拘縮」と呼ばれることが多い。しかしながら、Edwardによれば、「拘縮(contracture)とは、関節自体あるいはその周囲にあって関節を支持している結合組織すなわち筋、腱および関節包などが短縮した結果である」としている。

また、Krausは「筋、腱、靭帯、関節包などの軟部組織が本来持っている弾性(elasticity)を失った状態をいい、他動的な伸長(stretch)によっても正常の長さにならないこと」と定義している。

これらから、「関節拘縮とは、関節自体を構成する軟部組織である関節包、靭帯の伸展(elasticity)が喪失した状態である」と定義することができる。

骨折後の変形治癒・転位、関節の不適合、関節軟骨の変性などによる関節可動域の制限は正確には関節拘縮には含まれない。

同じように、当該関節の拮抗筋・腱、皮膚などの軟部組織は関節という器官には含まれないので、これらの短縮は「関節拘縮」からは除外される。

実際英語では関節包の拘縮(capsule contracture)や筋拘縮(muscle contracture)というように軟部組織を直接指して表現されている。

逆に関節拘縮(joint contracture)というように、軟部組織以外の組織を含む全体を指して拘縮という使用法は見当たらない。


宇都宮初夫「関節拘縮改善のためのストレッチングの手技とその効果」


リハビリテーションって何ですか?

2006-09-24 18:52:47 | Weblog
私の勤めている病院はリハビリテーション病院である。

一般的な総合病院や専門的な内科・外科の病院と違い、リハビリテーションを専門とする病院である。

私が勤め始めた頃は、全く違和感が無かったのだが、最近どうもこの「リハビリテーション」というものに、違和感を感じることがある。

今年度の診療報酬改定にて、リハビリテーションには「期限」たるものが設定されたのだが、これによってクライアントから良く言われる言葉がある。

「リハビリが終わったら困る」、「どうしてリハビリをやめないといけないの?」などなどetc…。

自分が入職した当初は、「クライアントの障害を改善したい」という強い願望があり、クライアントの障害や、治療・訓練法を、勉強し、考察し、実践し、検証してきた。

しかし、誰一人、リハビリテーションをされた人はいなかった。

もちろん、ICFからみて、マイナス面は減少し、プラス面は大きく増えている。しかしながら何らかのかたちで、病院や通所など、いわゆる「リハビリテーション科」に関らなければならないクライアントばかりで、なかには10年以上も外来リハで通院されているクライアントもいる。

我々は、障害を有するクライアントに死ぬまで関らなければならないのだろうか?

また、障害を有するクライアントは死ぬまでリハビリテーションを継続して行わなければならないのだろうか?

「あなたにとってリハビリテーションってなんですか?」

思わず、クライアント本人に聞いてしまったことがある。

そのクライアントは去年から私が担当していいるのだが、すでに10年以上も外来リハで通院されており、10年前からそのクライアントの目標は変っていない。

よく言えば「維持されている」と言えるが、悪く言えば「その目標は不可能なのでは?」と考えらる。

自分自身も担当になってからはそのクライアントの目標に向けて、何が問題で、何を改善すればいいのか、そして、何を行えばいいのか、自分なりに考え実践してきた。

しかし、クライアントには若干の身体的変化しか起こらず、その他で変化した点は一つもなかった。

強いて言うならば、1年前から評価表を毎回コピーし続けても、バレないほど変化はみられなかった。

勿論、私が行ってきたことが正解だとは思っていない。

しかし、そのクライアントは10年以上も外来リハで通院されたのにも関らず、目標を遂げられず、今週にはリハが終了になる。

あなたにとってリハビリテーションって何ですか?