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公開霊言抜粋レポート  「仏教学者・中村元が地獄に堕ちた理由」

2013-12-27 23:58:46 | 幸福実現党


公開霊言抜粋レポート

http://the-liberty.com/article.php?item_id=7148


仏教学者・中村元が地獄に堕ちた理由

公開霊言「仏教学から観た「幸福の科学」分析」

2013年10月16日収録

※本霊言は、幸福の科学の全国の支部・精舎で拝聴できます。なお、この内容を収めた書籍は12月上旬より全国の書店で発売中です。

「霊言現象」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のこと。これは高度な悟りを開いた者に特有のものであり、「霊媒現象」(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる現象)とは異なる。また、外国人の霊の霊言には、霊言現象を行う者の言語中枢から、必要な言葉を選び出し、日本語で語ることも可能である。 詳しくは⇒⇒⇒大川隆法のスーパー霊能力 「霊言」とは何か





 巷の仏教の解説書や入門書を手に取ると、「仏教は霊魂を認めない」「仏教は合理性を重んじ、神秘的なものを排除する」といった文章をよく見かける。死後の霊魂やあの世を信じていない僧侶が供養だけはしてみせ、大学では仏教学者が堂々と唯物論を教えているケースも多い。

 しかし、例えば、日本人は長らく仏教を信仰してきた国民だが、神仏、霊魂、あの世をごく当然のこととして受け入れてきた。仏教を唯物論だとする解釈にはどこか違和感を覚える人も多いだろう。実は、仏教を唯物論と見なす風潮には、日本の仏教学が、近代の実証主義や科学主義の影響を受け、仏教を唯物論的に解釈してきたことの影響が大きい。

 日本人の伝統的な仏教理解がそもそも間違っていたのか、それとも、近代仏教学のほうに何らかの誤りがあるのか、このことについては検証が必要だろう。

 10月16日、大川隆法・幸福の科学創始者兼総裁は、仏教学の立場から幸福の科学を分析してもらうという趣旨で、仏教学の泰斗である中村元氏と渡辺照宏氏の2人の霊を呼び、その考えを聞いた。その結果、信仰心を置き去りにした唯物論的な仏教学の誤りが明らかになった。





中村仏教学の特徴

 中村元氏と言えば、仏教学、インド哲学、比較思想学の世界的権威として有名である。膨大な著作や論文を発表し、浩瀚な『広説 佛教語大辞典』をほぼ一人で完成させるなど、その業績は高く評価されている。東京大学のみならず海外の大学でも教え、後進の指導にも力を入れていた。1999年に亡くなったが、中村氏の薫陶を受けた多くの弟子たちが現在も仏教学会をリードしている。

 この中村氏の築き上げた「中村仏教学」だが、いくつかの特徴がある。一つは、「梵天」や「悪魔」といった霊存在や霊界の話など仏教には神秘的な要素がかなりあるが、教理を考える上ではそれをなるべく見ないようにしていること。もう一つは、仏陀・釈尊を「道徳家」あるいは「人々のリーダー」のレベルでとらえ、信仰の対象としては矮小化していることだ。

 例えば、釈尊が悟りを得る直前、「悪魔」の惑わしを受けたという話は有名だが、中村氏は生前の著書の中で、この悪魔について、「悪魔は当然ブッダの内心の汚れであり、心のネガティブ(消極的)な一面を表しているのではないでしょうか」(『ブッダの人と思想』)と語っている。つまり、悪魔という霊存在が現実にいるのではなく、それは釈尊の心の弱点を比喩的に表現したものだというのだ。

 高級霊存在である「梵天」についても同様である。中村氏は「梵天は悪魔と反対に、ブッダのポジティブ(積極的)な一面を代表しているのでしょう」(同)と言う。このように、この世で生活している人間とは異なる、個性ある霊存在がいるという考え方に対しては、中村氏は一貫して懐疑的だった。

 また、後代の仏教徒が抱いたような神聖で超越的な仏陀観を否定し、仏陀を矮小化する傾向は、「ブッダの伝道は、高い処から法を説くというより、修行者の仲間と共に歩むという考え方でありました。ブッダの教団に入るものは、弟子というより仲間であり、友でありました」(同)などの記述から明らかである。

 今回、招霊された中村氏の霊が語った内容も、やはり生前と同じ傾向を示していた。例えば、中村氏の霊は悪魔の存在について「この『悪魔』と言われるものは、やっぱり『心の中の迷い』だと思うんだよ、きっとなあ」と語った。また、釈尊についても「だって、『涅槃経』を読んだらさあ、仏陀自身が『あっちが痛い、こっちが痛い』ばかり言うとる。わしと一緒やねん」などと語り、その神聖性を否定するかのような言葉を繰り返した。

 しかし、仏教に登場する多くの霊存在や、釈尊の神秘性を否定するような態度は、仏典を素直に読む限り大いに疑問があるものだ。仏教では、梵天、神々、悪魔といった多くの霊存在が登場し、釈尊と様々な対話をしている。その内容を記述するために仏典の多くのスペースが割かれており、これらをすべて「象徴」や「方便」として解釈してよいなら、仏教のかなりの部分が妄想ということになってしまう。

 また、釈尊が修行者や信者たちに、「仏」「法」「僧」に対して帰依する「三宝帰依」を求めていたことは歴史的な事実だ。釈尊は自らを天上の神々よりも上位の存在とし、自らへの「信仰」を求めていた。釈尊と他の修行者たちはあくまで「師と弟子」の関係であり、決して同格ではありえない。

 中村霊は生前の自らの学問について振り返り、「『神秘主義』のところは、あんまり深入りしたくなかったんでねえ。戦後、そういうのは、やっぱり野暮ったく見えてた」「(民主主義の流れが強くなり)天皇も、『人間宣言』をなされたしなあ。釈尊も、あんまり“超人宣言"をされると、ちょっと『困るかなあ』っていうところはあったから」と語った。中村仏教学における、霊などの神秘的存在を無視し、釈尊の超越性を剥ぎ取るような姿勢は、戦後の唯物論的な風潮や民主主義の流れに影響されたものだったようだ。





仏教学の中に流れる「無霊魂説」の誤り

 これは中村仏教学だけの問題ではないが、現在の仏教学の中には、「仏教は無霊魂説である」という考え方がかなり深く入り込んでいる。梵天や悪魔はもちろん、もっと一般的に、死後も存続する人間の霊魂のような存在を認めない立場だ。しかし、これは釈尊が説いた「無我説」を「無霊魂説」と誤って解釈した結果である。

 生前の中村氏の考え方もこの延長線上にある。「死後も霊魂はあるのか」についての中村氏の説明は曖昧だが、「無我の境地に至れば、死後の行く末を心配するような仮の自己はなくなるのだから、魂の有無などは問題ではなくなる」という趣旨の見解を述べている箇所が多い。やはり、霊魂の存在を明確に認めることには、かなりの抵抗感を見せていると言えるだろう。

 しかし、釈尊の説いた「無我」とは「我欲、我執を去れ」という教えであり、「霊」や「魂」の存在を否定するものではなかった。そもそも、仏典には、個人の霊魂が残らないとしたらありえない話が山のように出てくる。釈尊が過去世で多くの功徳を積んでいたという話や、信者がよく布施をして戒律を守るならば天上界に生まれ変わるという説法などがその例だ。要するに、仏教は魂の転生輪廻を前提とした教えなのだ。ごく自然に考えるならば、霊魂の不滅なくして転生輪廻があるはずもないだろう。

 釈尊の「無我」を「無霊魂」と誤解する考え方は、仏教の歴史の早い時期からあった。ヒンドゥー教などから、無霊魂であるにもかかわらず転生輪廻があるとする矛盾を指摘されることは多かったらしく、例えば、唯識学派という一派は「魂というのではないが、阿頼耶識と呼ばれる心の深層部分が輪廻するのだ」などと苦しい説明をしている。しかし、釈尊はそもそも霊魂を否定していないのだから、これほど苦労する必要はなかったわけだ。

 魂と輪廻の関係については、現代の仏教学者たちも、一読して理解できない曖昧な説明に終始していることが多い。今回、呼び出された中村氏の霊も、やはり霊魂の説明に関しては支離滅裂の感があった。「だから、『魂』なるものは認めないの!  魂は方便なの!」と霊魂の存在を否定しながら、「今、話をしている自分は霊魂ではなく“ろうそくの炎"だ」「大川総裁の頭の中の妄想が現象化したもの」などと意味不明の説明を繰り返した。このやり取りには、まさに現代の仏教学の混乱が集約して現われていると言えるだろう。

 また、今回の霊言中、最も驚くべきことは、中村氏の霊が「仏陀」を自称したことだ。「あなたが『仏陀』ということ?」と質問された中村氏の霊は「まあ、そういうことになるかな。私の説いていることが『仏陀の教え』なんだ」「私は悟りたる者だからさ」などと語り、自惚れの心を露わにした。

 生前の中村氏は周囲に対して、一学徒として謙虚な姿勢を見せていた。しかし、今回の霊言では、自らを仏陀だと詐称し、名声や勲章へのこだわりを何度も口にするなど、「慢(自惚れ)の心を去る」という仏教の基本の教えでつまづいていることが明らかとなった。残念ながら、中村氏は、仏教学者でありながら仏陀への信仰を失い、名誉欲の虜となっていたと言わざるをえない。





信仰心と神秘性を仏教の基本とする渡辺照宏氏

 中村氏は仏教を唯物論的に解釈した。一方、真言宗の僧侶でもあった渡辺照宏氏は、仏陀への信仰を前提とし、神秘現象を認める正統的な仏教学を展開した。

 例えば、渡辺氏は生前から、仏陀への信仰について「仏陀への信仰なくしてはいかなる修行もあり得ない」「仏教を考えるとき、いずれにしても信仰を無視することはできない」(『仏教』)と言い、信仰が仏教の本質部分であると喝破していた。

 また、釈尊が神通力を発揮していたことも強調している。渡辺氏は「釈尊が布教活動を開始した当初ウルヴィルヴァーの迦葉(カーシャパ)を弟子にしたのは神通力比べに勝ったからである。また舎衛城シラーヴァスティーでも釈尊の神通力は抜群であった」(『仏教を知るために』)と語っている。転生輪廻の思想についても、人間が死後も存続するのでなければ私たちは自らの行為の責任を引き受けることができないとして、それが仏教の基本であることを明確にしていた。

 今回、登場した渡辺氏の霊は開口一番、「中村君の間違いはねえ、もう徹底的に、超越的なものを信じようとしないところにあるわけだ」と中村仏教学の誤りを指摘。さらに「『仏陀があの世の世界を知らない』なんていうことはありえないですよ」「まあ、根本的な無明(智慧がないこと)がありますね、はっきりと」と矢継ぎ早に語り、先ほど登場した中村氏の霊が地獄に堕ちていることを明かした。また、仏教の中に無神論・唯物論の流れがはっきりと入っており、それを破折する必要があると強調した。

 渡辺氏の霊はさらに、仏陀を普通の人間のレベルに引き下げる中村氏らの考えを批判。「久遠実成の仏陀に目覚めなかったら、それはねえ、やっぱり、信仰者としては駄目ですよ」と述べ、「人間・仏陀」の奥にある「偉大なる存在」「永遠の仏陀」を見破らねば信仰は成り立たないと指摘した。生前の著作でもやはり「仏陀の本体が永遠の唯一実在に他ならないとするならば、むしろその本体そのもの――法身――に帰依すべきではなかろうか」(『仏教』)と述べている。

 中村氏は、超越的な仏陀像は後世に加わった大乗仏教的な要素だとして排除し、成立が古いとされるパーリ語仏典や漢訳阿含経などを研究することで、人間として生きた仏陀の姿を探ろうとした。しかし、渡辺氏は大乗的な仏陀観も含めて、後に説かれた様々な宗派の信仰は、すでに萌芽として釈尊在世時からあったという立場だ。神秘性は後世に付加されたものだとし、それを剥ぎ取れば真実が現われるという中村氏の考え方に大きな間違いがあったと言えるだろう。

 語学の天才でありながら、病床に伏す時期が長く、中村氏ほど膨大な業績を遺すには至らなかった渡辺氏だが、今回の霊言で高級霊界に還っていることが明らかとなった。両者の魂の境涯を分けたのは、「仏陀への信仰心」に他ならない。宗教を学問的に分析するにせよ、神仏、霊、あの世などを否定するならば、正しく研究することは難しい。

 中村氏のように多くの著書や論文を著し、世界的な名声を得ようとも、霊的な真実をつかめなければ、その業績は無に等しくなる。大川総裁は霊言を受け、「『信仰心のない人の知識はガラクタ』ということです」と総括した。宗教や思想の世界に関わることの厳しさが改めて浮き彫りになったかたちだ。仏教者でありながら霊やあの世を信じない僧侶、無我説を無霊魂説と曲解する仏教学者などにとっては、厳しい警鐘を鳴らす霊言であると言えるだろう。



このほか、本霊言では以下の論点についても語られている。
• 中村氏の師・宇井伯寿氏の死後の行く先。
• 中村氏にとって「涅槃」とは「光の射さない場所」?
•悟った釈尊は“消滅した"?
•この世は悪魔のつくった世界なのか。
• 渡辺氏から見たエル・カンターレの姿とは。
• 渡辺氏と同じ霊界にいるあの「超有名人」。
• 中村氏と渡辺氏の過去世とは。









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