しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <イエスのなきがら>

2016-10-16 | みことば静想

紅葉「それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」 (ルカ23:53新改訳)

遺体を納めた墓の中は、気持の良いものではない。しかし主イエスのおからだが安置された墓室は、その反対であったと思う。なぜなら、人の死は本人が犯した罪の結果として来るものであり、そこには罪に対する神の怒りと呪いが満ちているが、主イエスの死は天父の御心に全く従い通した従順の結果、万民の罪を身代わりとして負った愛の結果としての死だったからである。▼暗やみの中に御子のからだは亜麻布で包まれて安置されたが、それは人類と天地万物に注がれた怒りと呪いを呑みつくし、これを終わらせ、復活を待つばかりのおからだであった。神はなんびともこれに触れたり、傷つけたりすることをゆるさず、石の戸に封印して聖日の朝まで守られた。おそらく天においては無数の御使いたちが固唾を飲んで、その瞬間をみつめていたにちがいない。古い世界の終わり、復活の世界への扉、それが御子イエスのおからだであった。▼「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」(ローマ6:4)のである。キリストの葬りとともに「私の葬り」がある、とパウロは言う。なんと深い聖潔の奥義であろうか。また、次のようにも記される。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(同6:5)

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