しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 詩篇119篇105~112節 <心を傾けます>

2017-06-19 | 詩篇

姫路城遠景「私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。」(詩篇119:112新改訳)

イエス・キリストは父がお命じになることを喜んで受け、それを行うことにすべてを傾注された。「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」(詩篇40:8同)と記されたとおりである。主にとって、ご自分を地上に遣わした父のみこころを行うことは食物のように大事であり(ヨハネ4:34)、父の命令は永遠のいのちそのものであった(同12:50)。この意味で、詩篇119篇は人となられた神のお心をそのまま描いたものであることがわかる。▼これに反し、生来の人間は神のおことばを実行することを嫌がり、自分の心のままに生きることを欲する。それが今日みられるとおり、世界と個人の破滅、破壊をもたらしている元凶であるのは周知のとおりだ。最初、神のかたちに造られたアダムとエバだったが、罪を犯したとき、急に神の御声がこわくなり、それを避けて茂みに隠れた(創世記3章)。それが本質的に今も続いているのである。▼どうすればこの詩人のように、神のことばを喜ぶ者へと変えられるのだろう。すでに明らかなように、御霊によって新しく生まれ変わることである。そうすれば御父に従われた主ご自身が内に来られ、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」(エレミヤ31:33同)との預言が成就する。そのとき人は主と共に歩むのがこれほど楽しく、喜びにあふれたものであるかを実感するのである。▼今日の教会における最大の問題は、キリスト者が聖書に魅力を感じていないことである。というより、この世に強く惹かれている者が多く、みことばがなおざりにされている、といったらよいであろうか。日曜日に教会に行くまで、聖書は棚におかれたまま、というクリスチャン・ホームは意外に多い。少し真面目なキリスト者は朝か夜、デボーションの本とともに聖書を開くであろう。しかしそれが終わるとさっさと片付けて、あとはみことばと関係のない一日を過ごしている。かばんに小型聖書を入れ、時間があると読みながら過ごす、スマホに入れた聖書を電車に乗っているとき、あるいは仕事の合間に見ている、そういう人はとても少ない。心に絶えず主のお声が聖書のみことばとともに「聞こえている」、そして自分も声なき声で祈り、主との霊の交わりを喜び楽しんでいる、そういうキリスト者は砂中の宝石のようにわずかではないだろうか。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 聖日の朝に <主のあわれみ... | トップ | 朝の露 詩篇119篇113~120節... »