エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて18年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

ザメンホフの家族たち

2017-05-20 | 読書ノート


 ボールトンの「ザメンホフ」にはザメンホフの家族についても一通り述べられている。
 ザメンホフ(Lazaro)は1859年12月15日に生まれた。父の Marko は知識人で理性的、勤勉で冷静、母の Rozalia は愛情深く、感じやすく、献身的で同情心厚く、母親の忍耐と直感的な理解力を持っていた。一見して正反対の二人だが、幸せな家族を作っていた。長男の Lazaro の後に、たくさんの弟・妹が生まれる。
 1860年 Sara、彼女は10才でこの世を去る。62年 Fania、64年 Auxgusta、68年 Felikso、71年 Henriko、75年 Leono、77年 Aleksandro、79年 Ida。
 以下の記述はボールトンの「ザメンホフ」以外の資料にも拠っている。
 Marko は1907年、エスペラント界では Ido 騒動のあった年に亡くなった。Rozalia は1892年、52才でこの世を去った。Leono は熱心なエスペランチストとして活動、第2回エスペラント世界大会(1906年ジュネーブ)で喜劇を演じた。Aleksandro もエスペランチスト。1917年、徴兵を拒否して自殺(ボールトンによる。Vikipedio には1916年、ロシア軍の大佐とある)。Ida はエスペランチストになり、ワルシャワに住むが、1942年、トレブリンカで殺された。Felikso は Lazaro と年の近い兄弟として早くからその思想に触れ、エスペラントで会話をし、「第一書」の普及に尽力、エスペラントの著作活動もして「Fundamenta Krestomatio」にもその作品が収録されている。
 Lazaro は1887年、Klara と結婚、義父の財政援助もあって「第一書」を公刊する。2人の間には Adamo(1888)、Sofia(1889)、Lidja(1904)が生まれる。Klara は Lazaro の死(1917)後もエスペラント世界大会に参加、1924年に死去。Adamo は妻 Wanda とともに父と同じ眼科医に、Sofia は内科医、Lidja は熱心なエスペラント活動家になり、バハイ教に入信する。1925年、Adamo と Wanda の間には息子(Ludoviko)が生まれた。ユダヤ人であった彼らには第二次世界大戦中に苛酷な運命が訪れる。
 1939年、ドイツによる爆撃がザメンホフの家を直撃、貴重な資料が失われた。
 ゲシュタポが家族を逮捕、1940年一月、Adamo と Henriko(Lazaro の弟)が銃殺されたと思われる。他の人たちはいったん自由になるが、ワルシャワのゲットーに住む。1942年8月、Sofia、Wanda、Ludoviko が逮捕されトレブリンカに送られるが、その途中で Wnda と Ludoviko は脱出に成功する。このことについては Ludoviko 自身の著作「ザメンホフ通り」に詳しく述べられている。Sofia は医者としての仕事が待っていると信じていた。2か月後には Lidja もトレブリンカへ。生き延びた Wanda は1954年、交通事故で死亡、Ludoviko は技術者となり、優れたエスペランチストとして活動。

 貧しく狭い家の中で、Lazaro は長男として弟や妹の面倒も見ていた。あるとき、小さな弟の Leono があまりにやんちゃに振る舞うので、思わず「Leono は獣だね」と口にでた。これが Ekzercoj の最初に出てくる「Leono estas besto.」だとか・・・。
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