
ERAJ というネット上の投稿グループで少々奇妙な議論が行われた。ERAJ で直接議論に参加したくないので、ここに私の考えを書いておくことにした。
事の発端は「今、ある詩が各国語に翻訳されてネット上で拡散中である。その翻訳に、早急にエスペラントの訳を加えることはエス語の存在を示すことにもなり大きく貢献すると信じる(以上、要約)」ので、どなたか翻訳して下さいという趣旨の投稿だった。これに対して、詩の内容に疑問があるという投稿がなされ、そこから少しばかりの議論が起こった。
ここではその詩の内容の是非については論じない。私自身は最初の呼びかけになんとなく違和感を持った。投稿した人はかなりベテランのエスペランティストであり、なぜ自分でやろうとしないのか? という疑問もあったが、それよりも「詩の内容が重要だからエスペラント界にも広げよう」ではなく、「エス語の存在を示す」という発想に疑問を感じたのだ。これが、「どなたか協力して頂けませんか」でなく、非常に一般的な形で提起されたことに違和感を持ったと言ってもよい。
詩の内容が正しいのか誤りを含んでいるのかといったことは、エスペラントとは全く無関係な話である。にもかかわらず、これをエスペラントにそのまま訳すべきではない、注釈をつけよとか、個人的な意見だということを明記せよといった意見が出てくるのはなぜか?
何人かの投稿者には「(内容の誤りについて)何の注釈も無しにエスペラント訳して公表した場合、全てのエスペランティストがそのことを支持しているという誤解を受けかねない」という意識があるらしいのだ。
ある作品を日本語に訳して発表したからといって、日本語話者のすべてがそれを支持しているなどと誰が考えるだろうか? エスペラントは余程特殊な閉じられた世界の言葉なのか? これが、私が「奇妙だ」と言ったことの内容である。
エスペラント会や協会はもちろん存在するが、 エスペラント界というのは現実には存在しないと私は思う。しかし「エスペラント界」を強く意識するエスペランティストがかなりの割合で存在することはたしかである。そういう人たちは、エスペラントは単なる言葉ではなくひとつの運動であり、エスペランティストたちは何か共通の意識を持っているはずだ(持っていなければならない)と考えているのではないだろうか。
写真は中山道紅坂の一里塚。写真には写っていないがここにも2基残っている。












これは私がエスペラント界幻想を抱いているのではなく、エスペラントを知らない人々がそういう幻想を抱いているようにみえる場面を何度か観察したことがあるからです。
知られていないものについて偏見を持つのは自然なことですが、そういう偏見が自分に向けられるのを避けたいというのは、単なる言語としてエスペラントを学習した者として、自然な感情だと思います。
(私は入れてもらえないの、入国審査で)
もし素敵な詩があったら自分で訳して、「間違いがあったら教えて」ってことはあります。
エスペラントで書かれたものには様々なものがあります。慰安婦のことで日本ではなく朝鮮の父母を非難したものもありました。エスペラントで書かれたあらゆるものに責任を持つことなどできるはずもありませんし、自分に責任の持てないことを書くなと他人に求めることもできません。
ごく当たり前のことをいっているつもりなのですが・・・。
また、「自分に責任の持てないことを書くな」と言っているのではありません。実際、「どんな作品であれ、翻訳するのは大いに結構」ということもERAJへ投稿した文章に入れました。ただ、訳者が架空のエスペラント界を代表して訳しているのではないことが、一般の人に分かるようにしてほしいだけです。
何語であれ、作品を発表するときも、翻訳を発表するときも、作者や訳者のペンネームを添えるのはごく普通のことです。
匿名の翻訳がなされる可能性があるとき、エスペラントに関しては上記のような偏見の恐れがあるので、これをできるだけ避けたいという気持ちから、個人的な意見だと分かるようにしてほしいと言うのが、それほど奇妙な要請だとは思いません。この要請を訳者が受けるかどうかは訳者の勝手ですが、要請自体は、偏見に怯える者の権利として尊重するべきだと思います。
mixiには参加してらして当該するトピックスはお読みだと思いますが、どうして自分で歌詞を翻訳して互いに批評するということをしないのか不思議に思います。私は自分の思うところに従って訳をし、よりよい訳があるのであれば改良して欲しいのですが、「譜割りが分からないので判断できない」という意見か、「著作権上問題があるから自分は関与しない」という意見のみで、何とも後ろ向きです。
Finaleという楽譜作成ソフトを持ってるので、楽譜付きで訳をアップロードしようかと思ってますが、あまりに後ろ向きな意見ばかり見ていると、それすらもどうしようかと思われます。
著作権のことはきちんとクリアしておくべきでしょうね。
fotono さん、翻訳は1編とは限らないわけですから、訳者の名前をつけるのは当然のことと思いますよ。
エスペラントへの偏見は、エスペランティスト自身が作りだしている面もありませんか?
-----転載ここから-----
エスペランティストが偏見を持たれるのは、少数派だからというだけではなくて、発生がザメンホフの思想に基づいていることも原因だと思う。
今では、便利さ(国際交流や旅行や読書可能範囲を広げるための)を主な動機としてエスペラントを始める人が多いような気がするけど、初期の頃は、やっぱり思想が使用者増加に大きく貢献したと思う。
エスペラントについて、その存在を知っているだけの人々 (A) が、「エスペラントという言語」を「エスペラントという思想」から切り離して把握するのは難しい。そのうえ、そういう人々の中には、エスペラントの思想を正確に知っている人もほとんどいないだろうから、たいてい聞きかじりか何かで、エスペラントへの偏見を増幅させているだろう。
その一方で、便利さを動機として「エスペラントという言語」を使っている人々 (B) は、「エスペラントという思想」にはまったく関心が無い。しかし、「エスペラントという思想」を共有する人々 (C) は、現在も存在し続けている。 (B) にとっては、「エスペラントの存在を示す」といった、 (C) の思想に基づくような考えは気持ち悪い。これが esperakira さんの感じる違和感だと思う。
この違和感については私も同感だが、その後の「個人的な意見だということを明記せよ」という意見 (1) と「おかしなところは改変・削除せよ」という意見 (2) と「改変・削除などはしないで注釈を入れよ」という意見 (3) を同列に論じるのは全くいただけない。
(1) と (3) の意見を述べたのは (B) の人だ。ただし、 (B) はさらに2種類に分類できる。 (A) による偏見を気にする人 (B.a) と、 (A) による偏見を気にしない人 (B.b) だ。(1) と (3) の意見を述べた人は (B.a) であり、 esperakira さんは (B.b) であると考えられる。それに対して、 (2) の意見を述べた人は 、「エスペラントの存在を示す」という考えを出した人と同様、(C) であると考えられる。
(B.b) は、偏見を持つ人のエスペランティストに対する差別的な発言を聞いても、「酔っ払いのたわごと」として一笑に付すだけで、相手の偏見を取り除くための面倒くさい努力なんてしないだろう。その態度については、 (B.a) である私にも理解できる。しかし、 (B.b) が (B.a) を (C) と混同して「違和感」という言葉で一蹴するのを見るのは、 (B.a) の一人である私にとって気持ち悪いし、悲しい。
-----転載ここまで-----
私自身は、自分の接する人々が私を通じてエスペラントに偏見を持つことがないように心がけているつもりです。もっともその偏見を直接感じたこともほとんどありませんけど。
「エスペラント?絶滅した言語じゃないの?」
絶滅してなーい!と言い続けるのはだめなんですかね。