建築ノスタルジア

郷愁への架け橋

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広泰寺・不識塔

2011-08-29 20:14:33 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 斎藤主(さいとう・つかさ 1860〜1919)は弘前に生まれ、全国各地で土木事業に従事し、晩年には凶作救済の為に西目屋奥地の開発事業を起こした事で知られる実業家。 旧弘前市立図書館の建設費用を寄附した篤志家5名のうちの一人としても知られています。 彼は横浜市鶴見にある總持寺管長・西有穆山(にしあり・ぼくざん)の下で参禅・修行を行っており、その西有管長から山形県米沢にある広泰寺が住職無住になっていて誠に惜しいという話を聞かされます。 広泰寺は元々は戦国武将・上杉謙信が開基したもので寺格は非常に高く、上杉家では代々寺領を与えて保護していましたが、主が米沢に出向いた時には既に荒れ果てて修復出来ない程の状態になっていました。 そんな中で主は寺格をそのまま譲り受けて寺を移転させようと考え、自ら住職の資格を得て広泰寺を西目屋村に再建する事になりました。  青森県西目屋村川原平大川添89−3  10年10月上旬

 ※参考『青森県の近代化遺産』 2000
    『青森県近代和風建築総合調査報告書』 2004
    『青森県の暮らしと建築の近代化に寄与した人々』 2007



 明治44(1911)年築の総煉瓦造り。 平成11(1999)年に修復をしたようで古さはあまり感じさせません。 




 半地下2階建の建物のようです。




 住宅を兼ねている為、階下には押し入れや床の間のついた部屋があって2階には風呂もあるという。






 主はここで生活している時に不識塔の建設を思いつく。


 不識塔へと続く坂道。 雨の降った後は泥道にはまる覚悟が必要。 


 不識塔(大正元年築・1912)。 別名・主(つかさ)の塔。 現在は補強の為の鉄骨が取り巻き姿は良く見えません。
 

 現地解説板。  


 6ヶ月程の工期で塔は竣工し最下段は祭壇、右回りの螺旋階段が最上階まで続いているという。


 これが本来の塔の姿。 主は自分の死後に遺体を永久保存の処置をして塔の地下に埋葬するよう家族に遺言している。 大正8(1919)年12月23日、弘前出身の医学博士・今裕(こん・ゆたか)の手により遺言通りに永久保存の処置がなされ、主の亡骸は塔の地下に埋葬された。 ちなみに今裕は明治天皇が崩御した際の遺体の処理も行っており、後に北海道帝国大学の総長にもなっている人物。 主の遺体を処置した際の今博士の証明書も残っており、それを以下に記す。

 1、ホルマリン1ポンド、酒精3ポンド、グリセリン1ポンドを遺体股動脈より全身に注入。

 2、遺体は亜鉛引厚鉄板製経口1尺6寸(およそ48センチ)、高さ3尺(およそ91センチ)の円筒に蔵め93パーセント酒精を以て密閉す。

 その後、昭和55(1980)年に遺体は地下から取り出され火葬、親族の墓に納め直された。
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