日光市庁舎本館

2020-09-24 08:17:55 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 日光街道から少し奥まった高台に位置するこの建物は、当初は大名ホテルという名前の主に外国人向けの宿泊施設として建てられたものでした。 外国人避暑客などを相手に古美術骨董商を生業としていた小林庄一郎により明治38(1905)年に建設に着手、約35万円(当時)をかけて大正の初期頃にほぼ完成したといわれています。 「ほぼ」とわざわざ書いたのは、実は建物の外観は完成したものの内部が未完成であったとかホテルとして営業した記録が殆んど無かったからであり、資金繰りその他の関係で実際は開業に至らなかったともいわれます。  栃木県日光市中鉢石町999 13年09月下旬


 ※参考『栃木県の近代化遺産』 2003
    『近代和風建築』 1988



 日光駅から東照宮へと向かう途中に建つ。


 南側(向かって左側)に付属棟が接続。 竣工年は大正5、同7、同14年と諸説あり現在も判明していません。


 外国人の目を引くためか外観は城郭風。 施工者は不詳、設計者は大栗某(?)ともいわれますが、それすら定かかどうか良く分からないそう。 当初は屋根に金の鯱が一対載っていたそうですが第二次世界大戦中に撤去(金属供出か)されています。 


 破風の懸魚を拡大。 最初は龍かと思いましたが魚の尻尾みたいなのが見えるので…何でしょう? 鯉から龍へと変わる姿??
 

 次は向かって右側の破風。


 真ん中が壊れていますがこれは龍だと思います。


 左の破風を見ると龍の姿が完全に残っていました。


 坂道を登って出入口のある付属棟へ。


 建物は昭和18(1943)年に古河電工日光精銅所が買収、戦中は徴用工員宿所となり戦後は進駐軍に接収されて社交場となりました。 昭和23(1948)年に古河電工から日光町に寄付され、同27(1952)年からは町役場(現・日光総合支所)となっています。


 側面に周ると下見板が。


 更に裏手に周っていくと黄味がかった下見板の姿が現れました。




 

 軒下には漆喰装飾。


 日光を訪れる外国人の増加により古美術骨董商として商売は順調、小林は日光町議会議員や栃木県議会議員を経て明治41(1908)年には立憲政友会から選挙に出馬し見事に当選、衆議院議員にまで上り詰めている。


 明治30年代中頃から大正初期における日光はホテルや旅館業者が激しく鎬(しのぎ)を削った時代であり、その激戦地に参入しようとしたのが大名ホテルでした。 しかし第一次世界大戦(大正3年・1914に勃発)へと向けて世界情勢は緊迫し、日本から本国へと引き揚げる外国人の姿も目立ち始めるような時代が既に到来しており、大名ホテルが営業を始めるには余りにも遅きに失しました。 


 全てが夢のままに終わる。

川口連棟式事務所ビル

2020-09-23 08:09:23 |  大阪府


 大阪港の南部へと注ぐ木津川に背を向け、かつての川口居留地に位置するこの建物は大正10(1921)年頃の建築ですが、建築主など詳しい事はまだ良く分かっていないようです。  大阪府大阪市西区川口1-4-20他  08年01月上旬他

 ※参考『大阪府の近代化遺産』 2007
    『モダン・シティふたたび 1920年代の大阪へ』 1987



 5階建てのビルを挟んで南側の棟。 建物は1階が事務所で2階が居住スペース、地下は居住用や物置として使用されてきたと伝わる。


 アール・デコといった味付けの玄関装飾。


 南棟の一番北側の部分は、良く見ると階高も微妙に異なるし独立しているように思えます。 元は北側の棟に続いていたのでしょうか。




 こちらは北棟。 当初は似たような建物が他にも数棟あったようです。


 (旧)新大阪新聞社社屋という情報もありますが正確かどうか分かりません。


 正面からは分からなかったのですが裏手の2階部分には幅60センチほどのバルコニーが全面に設けられているという。


 ちょうどこの建物がある辺りには大阪で初めてのカフェー、キサラギが明治末に開業し、木津川を挟んだ向かいの江之子島には大正末まで大阪府庁が置かれていました。 近代大阪の中心地で流行の発信地でもあった旧川口居留地の面影は今では微かに残るのみとなっています。

旧田中別荘

2020-09-22 09:07:30 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 北軽井沢は長野と群馬の県境に位置する浅間山の北側に位置する避暑・別荘地。 軽井沢が外国人宣教師や日本人有産階級を中心に発展していったのに対し、北軽井沢は学者や大学関係者といった文化人達によって発展してきた歴史があるのだそうです。 この建物は明治末から昭和初期にかけて実業家として活躍した田中銀之助(1873~1935)の別荘として大正から昭和の初め頃に建てられたもので、浅間高原北麓で最古の洋館といわれるもの。 付近一帯は森林型リゾート地として開発され、現在この建物はレストランやカフェとして利用されています。  群馬県長野原町北軽井沢  13年09月上旬



 長野原と軽井沢を結ぶ国道146号から脇道にそれて少し進むと「LUOMUの森」と書かれたゲートがあり、その奥にこの建物があります。


 石積みの煙突。


 正面から中に入ってみます。


 1階は浅間山麓周辺の食材を使用した料理を提供するレストラン。 少し覗かせてもらいました。


 

 2つある階段のひとつ。 こちらが主階段?


  

 2階はブックカフェ。 郷土誌や自然をテーマにした書物、雑誌などが並べられています。


 ここで遅めの昼食を頂きました。 読書に耽りながらの静かなひと時。


 ゆっくりしたかったのですが天気予報は午後から雷雨の予報、実際に雷鳴が近づいてきたので後ろ髪を引かれる思いで店を後にします。


 

 この建物の事が書かれた文献を読んだ事が無いので設計・施工等は分からないのですが、施設の公式HPを見ると“あめりか屋”とかヴォーリズ建築の特徴を有するとあります。 両者いずれかの設計という事になるのでしょうか。


 HPには大正9(1920)年築とも書かれていました。


 こちらは裏面。 イメージ的に硬質な感じがする建物です。


 解説板にあった田中銀之助の写真。 学習院を経て後にイギリス留学、帰国後に日本で初めて慶應義塾大学にラグビーを伝えた事から「日本ラグビーの父」とも呼ばれる。


 現在、文化財登録を申請中のようなので、登録が決まったらもう少し詳しい建築情報が分かるのかも知れません。
 ※2013年現在。

カトリック松が峰教会

2020-09-18 07:20:26 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)

 
 松が峰教会は明治21(1888)年にパリ外国宣教会のカジャック神父により市内・川向町に宇都宮天主公教会として発足、後に現在の松が峰に移って明治43(1910)年には最初の聖堂が建設されました。 現在の聖堂は昭和7(1932)年にスイス人建築家、マックス・ヒンデル(1887~1963)の設計により建てられたもので、外壁に大谷石を用い双塔をもったロマネスク様式の壮麗な建物となっており、ヒンデルの日本における事実上の最後で最大の作品となっています。  栃木県宇都宮市松が峰1-1-5  08年01月中旬他

 ※参考『栃木の建築文化 カトリック松が峰教会』 1986
    『大谷石百選』 2006  ほか



 総工費5万3千余円(当時)、延べ3万6千人余りの人員により完成。


 十字架の先端までの高さは27メートル近くもあります。


 施工は当時、横浜にあった宮内建築事務所(宮内初太郎・1892~1957)。 優秀な技術陣を擁し外国人(特に仏人)からの信頼が厚かったといわれます。


 石工棟梁は安野半吾(1872~1951)。 工事には多くの石工が参加するも細かい細工が多く加工石数が伸びない事から工事を辞退する者が続出、その為に半吾が賃金を補償する事によって石工を繋ぎとめ完成に漕ぎ着けました。


 1階は当初、幼稚園となっていましたが現在は隣接する建物に独立し、ここの扉は基本的には開かれていません。


 

 正面の階段を上がって2階の礼拝室へ。




 戦災により屋根が落ち内部も焼失するなど半壊に近い被害を受けましたが、戦後になって直ぐの昭和22(1947)年には早くも復元工事が完了しています。


 現在は椅子席となっていますが建築当初は畳敷きでした。 正面のパイプオルガンは昭和53(1978)年に奉献された西ドイツ(当時)製のもの。  










 ヒンデルはスイス・チューリッヒのフルンテルン地区生まれ。 大正13(1924)年3月に来日し札幌で3年、横浜で13年の合わせて16年間を日本で過ごしました。 この聖堂の工事の際には敷地内に仮設の事務所を設けそこで寝泊まりし、監督や職人達に直接に指揮をしていたそうです。


 ゴム靴を履いたカエルの雨水落し。 これは建築当時の司祭が宮沢賢治と親交があったそうで賢治の童話『蛙のゴム靴』にちなんで作ったもの。 




 今の様に高い建物が周りに密集する前は、この尖塔が列車の中や遠く離れた場所からも良く見えました。 宇都宮に到着した事を実感する一瞬だったそうです。


 この聖堂が完成して3年後の昭和10(1935)年5月にヒンデルは自らの建築事務所を解散、同15(1940)年には日本を離れドイツ・レーゲンへと旅立っています。 ここを最後に以後は目立った創作活動をしなかったヒンデルにとっては正に建築家人生の集大成といってもよい作品なのかもしれません。

旧武州銀行川越支店

2020-09-17 12:36:15 | 埼玉・千葉


 昭和45(1970)年から川越商工会議所として使用されているこの建物は、昭和3(1928)年に武州銀行の川越支店として建てられたもの。 通り2面にドリス式のオーダーを備え、いかにも銀行建築らしい古典様式のデザインを纏っています。 設計者の前田健二郎(1892~1975)は福島で生まれ東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業、逓信省から第一銀行建築掛技師を経て大正13(1924)年に自らの建築事務所を開設して独立し、武州銀行の浦和本店(1927・昭和2年)や同・岩槻支店(1929・昭和4年)なども手掛けていました。   埼玉県川越市仲町1ー12  11年06月下旬

 ※参考文献『銀座モダンと都市意匠 今和次郎/前田健二郎/山脇巌/山口文象』 1993
      『埼玉県大正建造物緊急調査報告書』 1985



 先細りになったドリス式のオーダー。 古写真を見ると浦和本店は正面に1・2階を貫く4本のコリント式の大オーダーがありました。 川口支店(1930・昭和5年 設計者不明)にはイオニア式のオーダーがあり、支店により意匠を微妙に違えていた事が分かります。


 武州銀行は大正7(1918)年に設立され埼玉の中央銀行としての地位を担い、幾度かの合併の後に昭和18(1943)年の四行大合併により新設された埼玉銀行へと受け継がれました。


 鉄筋が通常の倍も使用されるなど壁の最も厚い所は135センチもあり、耐震耐火に気を使った非常に堅牢な造り。




 地下室にはパラペットに開口を持つ排気口があり、換気に留意する工夫が見られるという。


 前田健二郎は勤め人時代だった大正末期に主な設計コンペで連戦連勝し、建築界にその名を轟かしました。 当時のコンペは設計図やパースのみによる審査になっており、美術学校の図案科卒業で絵が上手だった前田の腕が存分に威力を発揮したようです。