『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌

遊里跡(遊廓・赤線・カフェー街)をブラブラあてどなく歩いた記録です。観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

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群馬県 高崎市 その2

2009-12-23 00:43:05 | 関 東

ここにはどんなお店があったのでしょうねぇ・・・。


 江戸時代、高崎は江戸の北の守りという重要な役目、また中山道の宿場町ということもあり、たくさんの人々で賑わいました。そのため旅籠には1軒につき2名までという幕府の許可のもと、俗に言う飯盛女が置かれていました。しかし、大勢のお客に対応するため、その許可を破る店が相次ぐこととなり、結果、高崎宿の飯盛女は禁止の憂き目に・・・。締め出された飯盛女たちが集まった場所というのが、現在の柳川町なんだそうです。

 柳川町という町名が制定されたのが明治6年(1873)のこと。その前年、以前は藩の馬場だった湿地を田中某という人物が買い取り、許可を受けたうえで遊廓を開設したそうです。そのため、周囲に料理屋などが集まり町並みが形成されることになります。中には未公認の遊女屋などもあったそうで・・・時は明治維新の真っ最中、全ては社会が混乱しているどさくさのなかの出来事でした。

 時は飛んで終戦後に・・・柳川町の東部が赤線に指定され、特殊飲食店の営業が許可されます。高崎警察署の報告書では、昭和12年(1937)時点で、店舗数16軒、酌婦220名とありますが、その後の戦争で衰退、終戦直後には37軒、92名という状態まで落ち込みます。しかし、その後のインフレと進駐軍兵士のお蔭で盛り返しますが、すぐに米兵の立ち入りが禁止され、日本人相手のみの色街へと・・・。その後の様子は前出の『よるの女性街・全国案内板』を参照ということになりますかね。



たかさき中央銀座の手前に、2軒の看板建築が並んでいます。左は明治15年(1882)に建てられた斉藤勝彦商店、右は大正10年(1921)に建てられた北村洋服店。どちらも退役済みのようですな。



向かいにはこんな赤煉瓦の塀が残っています。



赤煉瓦は表側だけで、奥は瓦が乗った純和風でした。現在は駐車場になっていますが、どんな建物があったのでしょうね。



その駐車場の奥にこれが・・・。東宝スカラ座という映画館。入口は反対側のアーケードに面しているのですが、建物半分が千切られたように壊されているのでした。なにやらキナ臭いものを感じます。



中央銀座・・・その名のとおり、かつては高崎随一の繁華街だったそうですが、現在は人通りも少なく、両側には歯抜け状の空き地が目立ちます・・・。



アーケードの中ほどに、また閉館してしまった映画館が・・・青いタイルが印象的なオリオン座です。周囲の映画館の中で最後まで頑張っていたそうですが、2003年にその長い歴史の幕を閉じたそうです。



よくよく見ると、外壁がゆる~い弧を描いているのがわかりますでしょうか?



気に入ったのが側面のガラスブロック。その他、錆びた配管やタラップ・・・この雑多な感じが大変宜しいですな。



アーケードを抜けて右折・・・風俗店の屍が並ぶ通りを進みます。



STAGE-1・・・パチンコ屋かな、と思って見上げると・・・



高崎電気館ビル・・・これも映画館なのでした。ここは松竹系だったそうですが、もう一つの東映系のも合わせて、以前は四天王と呼ばれていたそうです。それもさきほどのオリオン座を最後に全滅・・・なんだかやりきれない気分です。



固く閉ざされたもぎりのカウンター。奥に続く通路には飲み屋さんが入っているようですが、すでに現役ではない様子でした。



電気館の向かいに一見カフェー風の建物が・・・この奥が赤線だったという一角になります。



びっしりと飲み屋さんが並んでいますが、中にはこんな空き地も・・・。



半分が私有地だと警告している路地・・・これを抜けますと、さきほどの中央銀座に出ます。



右に見える建物はオリオン座です。このことからわかるかと思いますが、赤線跡は中央銀座のアーケードの西側に平行するようにして存在しているのです。



オリオン座の真後ろです。出窓みたいなでっぱりは何でしょう?



時代を感じさせますなぁ・・・。



建て替えられてしまったのか、『よるの女性街・全国案内板』で言っているような、古い私娼窟の情緒みたいなものはあまり感じられませんでした。



しかし、この密集した感じはなかなかのものです。



この路地も中央銀座に抜けられます。玉の井みたいに『ぬけられます』の看板出せばいいのに(笑)



入居者募集の貼り紙が目立ちましたので、ほとんどは現役じゃないと思っていたのですが、それはとんでもない間違いだったと後日知ることになるのでした。



以上、なんだか煤けた赤テントが哀しい色に見える、そんな柳川町の赤線跡でした。

その2はここまで、その3では今回の赤線跡に隣接する花街の遺構を訪ねます。
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5 コメント

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Unknown (おん)
2012-02-12 14:56:00
いつも読ませていただいています。
更新楽しみにしております。
「柳川町花街物語」という本が深く触れて書かれていました。グーグルブックスでも読めます。
どうして・・・ (隼人)
2012-02-12 20:49:21
>おんさん

コメントありがとうございます。

どうしてご存知なのでしょう、このレポ仰っている『柳川町花街物語』を参考に書いております。というかそのままの部分もあったりして(爆)

グーグルブックスではなく購入をオススメしますぞ(笑)

まあ、こんなしょうもないブログです。これからも可愛がってください。宜しくお願い致します。
Unknown (おん)
2012-02-15 21:50:13
そうだったのですか。
町名を検索したらこの本が出てきました。
グーグルブックスで読めて結構興味深かったでした。

埼玉県人なので行田編楽しみにしておりました
行田・・・ (隼人)
2012-02-19 23:14:33
>おんさん

本日、行田のレポUP致しました。宜しかったらどうぞ。私も埼玉出身ですよ~。

でも、遊里が存在しなかったはずの町を、その類があったのではないと無理矢理にでも盛り上げながらレポするのは大変疲れますな(笑)
北村洋服店 (本町)
2013-07-21 08:52:01
初めまして。
ふとしたことからこのページにたどり着きました。

私は幼少の頃(約40年前)、この近所に住んでおりました。
二枚目の写真にある北村洋服店は、2013年7月現在の今も営業を続けています。つい先日、法事で久々にこの地を訪れた際に店の前を通りがかったら、きちんと営業しており、ご主人が年季の入った腕さばきで服にミシンをかけていました。
私の記憶が正しければ、ご主人は80歳を越えているはず。
これからも末長く元気でいてほしいものです。

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